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88年の郭源治投手の活躍は神がかっていましたね。彼が居なかったら、この年のドラゴンズの優勝はなかった。
郭源治めっちゃ好きやったわ
郭源治好きだったなあ。
郭「10回はもう投げたくないので自分で打ちました」
槙原さんここにも登場…ネタに事欠かないな
3連続バックスクリーンとか、敬遠球サヨナラとか…
躍る守護神懐かしいなぁ
今も中日ファンですが、このころはまだ小学生で気が狂ったように応援してたなぁ、また父親が巨人ファンだったもんで、しょっちゅう言い争いしてました(笑)
槙原さんは記憶に残る打たれ方する
ナゴヤ球場のこの歓声の響き方が好きだったな
今のナゴドでは、現代野球では起こりえないドラマ自分は1993年生まれだが、10年早く生まれて、この時代を知りたかった
野田健一 俺も1993年生まれ
タフネス郭だから、こんな無茶な起用法でもなんとかなった。並の日本人投手ならとっくに潰れていただろう(近藤、森田、他)
ナゴヤ球場は名シーンが多いな。
郭はアマ時代は投手として投げない日はショートやってた
20年ちょい前までは抑え3イニングはザラだったね抑えが1イニング限定になったのは大魔神やソンの影響かなあ
先発リリーフと奮闘、ちぎっては投げ、ちぎっては投げの闘志を感じる投手でした。巨人の3本柱も凄いが、このような闘志を感じられないんですよね。
これ見てたぁ!興奮してその夜に家で壁キャッチボールしたなぁ。
最高の守護神
郭を劇的に変化させたのは星野さんの一言だったって皆さん知っていますか?実はリリーフに回る事になったシーズンの直前に郭の弟が交通事故死しているんです。それでなくとも終盤に打たれることが多かった郭を牛島を放出する事で抑えに回すことは皆から反対が大きかったらしいです。でも、星野さんはあえて短期回を全力投球させるのにうってつけの人物として決断しましたが、郭は弟の死で傷心状態だったんです。その傷を引きずりながらマウンドに上がった時、星野さんが自らマウンドに行って「源治、弟が空から見てるぞ」ってたった一言そう言ったんです。その瞬間から郭は変わったんです。「この人を勝たせたい。優勝して胴上げさせてあげたい。その為に自分が犠牲になるというならばそれでもかまわない。ロングリリーフだろうが連投だろうが何でもない。ただ星野さんに栄冠を…やってやる」って気持ちになったそうなんです。それで燃え上がる守護神となってこの年セーブとセーブポイントの日本記録を樹立したんです。
巨人ファンの別所毅彦が「郭源治に抑えが務まるわけが無い」と地上波時代のプロ野球ニュースで吐き捨てていたの今でも忘れないよ。
現地観戦してました
救援の回跨ぎは当たり前の時代当時のセの補回規定は15回時間無制限だからやたらと投手を変えると後で困ることになる
たしか郭は佐々岡にサヨナラホームラン打たれてるはず。
しかし槇原ってこの試合だけで無く「セリーグ最後の完全試合投手」というより甲子園での3連発被弾とか新庄に敬遠球をサヨナラヒット、中日戦で8点リードをフイや、日本シリーズでのデストラーデの3ランとか「記憶に残る打たれ方」をする投手って感じだよな~😅
川■ω■)ピッチャーのサヨナラホームランって記憶にないなあ。。。
漫才面白画像 昭和48年に阪神江夏が延長10回にサヨナラホームランでノーヒットノーランで勝ってる。
1990年の木田優夫投手。奪三振王(この年までセ・リーグはこのタイトル表彰なかった)で12勝、キャリアハイでした。
この試合、見に行ってた。二次会が最高だった。制服姿のまんまな。
踊る守護神
これ、ラジオがまともに聴こえなかったな。
最近ドラゴンズファンになったばかりで詳しくないんですが、郭源治が打席に立った時に流れてる曲は郭源治の応援歌ですか?なんと調べたら出て来ます?
モ 旧応援団の投手用応援歌です!
サバ磯野 ありがとうございます!凄く馴染みやすい応援歌でいいですね、、いつかまた球場で聴きたいです
また槙原かよww
3連発・敬遠サヨナラ・完全試合となにかと記憶に残る投手だなw
草
郭が3回投げても打席に立ったこと、序盤から失点している槙原が完投していることが共に今の常識からするとあり得ない。
これが3年後が カープが優勝だった
この時代なら7回から登板って普通じゃん。。。何みんな、野球ファンがとんちんかんなコメントして・・・どうしちゃったの?
普通でしたね。
郭、抑え投手なのに自分の背番号「33」の入ったマイヘルメットを持ってたのか。普通ピッチャーは「P」って書かれたヘルメットをかぶって打席に入ることが多いのだが。
MrTigret 元先発でしたしね…あってもおかしくはないですけど…
元々は先発だったからじゃね?
この日の中日は6点のうち4点を投手のバットで叩き出してるのな
2:21
He is god. byドラファン
打たれの誰かとおもったら 槙原かぁ
I am Taiwanese,台日の絆は、ワクチンが人々に免疫力を与えるように、民主主義国家同士が協力を通じてお互いのガバナンスを強化できることを示しています。困難な時代を、支え合ってともに切り抜けようという姿勢がこれまでにも増して鮮明になったとうれしく思っています。その深い友情に、心から感謝します。
この頃の巨人戦は見に行っても燃えたな。今の巨人に勝っても燃えまえんね😩
弟のこと、もっともらしく語ってるけど、シーズン前じゃなくて88年のオールスター明け頃の話だったんじゃないか?源治がストッパーに転向した星野1年目は、まだ弟健在よ。コメ主、自分に酔いすぎよ。
源治さんのサヨナラHR含め、中畑篠塚クロマティ。バンテリンドームなら全部ただの外野フライだ
このナレーション、たぶん中京テレビだ
郭源治って誰かに似てるなーって思ったらフランシスコ・ブスタマンテにソックリだな。
ジャンゴブレイクのブスタマンテ!!通好みなそっくりさんだなーw
抑えに7回からっておかしいみたいな言い方はわからんでも無いが、郭源治はもともと先発でも100勝あげてるレベルのピッチャーだし回跨ぎは余裕でこなせると思うんだがまぁ素人の考え方だからおかしいかもしれんが、先発でバリバリ出来てたやつなんだからやらせても不思議じゃ無いよね
孝政なんて7回くらいから勝ちゲームは連日投げてた それが普通みたいな感覚だった
やっぱり槙原
@keigoda しかもまだ行くつもりやったし。ここはもう代打でしょ。
視聴回数が88888でした・・・・・・・
中畑と篠塚のホームランはドームだったら多分スタンドまで届いてないな
miceli2363 wwwwwwww
巨人は嫌いだったけど、篠塚は好きだったから、ホームラン打たれても気にならなかった。
(´・ω・‘) はい!また、槙原ですw
3年後の中日戦、開幕戦と7月に彼は好投しながら逆転負けを喫するそしてこの2試合、○○ニュースの『息詰まるこの一戦』にノミネートされる・・・
今の野球がゆとりすぎ当時は抑えが6回から登板すら普通だったよ
pyopyo111 ???
抑えが7回からだもんなあ。。。やっぱ星野は壊し屋だわ。
いや、この年はあの10.19の年だけど、近鉄の吉井も10.19の第1試合8回頭から投げてるし、第2試合も7回途中から投げてます。まあ、どちらの試合もその後に阿波野が投げていますが…
抑えが7回から投げて、しかも延長を見越して9回に打席に立たせる・・って・・オイいったい何イニング投げさせるんだあ?w
あのさ、ヤクルトの野村さんだってさ岡林を7回からリリーフに送って15回引き分けまで投げさせたんだぜ。この当時はこれが当たり前だったんだっつうの。
7回から投げさせて10回も投げさせる予定だったとか星野に呆れるわ
今と当時を比べるな。当時はセットアッパーの概念がなかったからクローザーとストッパーが同じだったの。しかも勢い守護神と呼ばれる抑えの切り札は1人しかいなかったから、勝てる可能性がある試合はそのピッチャーと心中するしかなかったんだって。どこのチームだってそうだよ。広島の津田だってそうだし、ヤクルトの岡林だってそう。この時ストッパーがいなかったのは西武位だよ。
@@user-oy1bn4sl3s 中日球場で小学生の頃よく行ってたけど、当時から中日ファンでは星野は肩壊すで有名だったんだよなぁ
@@tomon7834 まあ、星野さん自身が大学時代に肩を壊して、それをジャイアンツに見破られたから裏切られた。そういう経験から打倒ジャイアンツだった。でも中日は投手の墓場って呼ばれてたからね…でも当時はそれが当たり前だったんだよ。今はピッチャーの寿命を大事にって時代だけどさ。
@@user-oy1bn4sl3s その中でも星野だけが当時から中日ファンの間で壊し屋と言われ続けたんだって。小学生の頃に年間数十試合見に行って、近藤のノーヒットノーラン、清原の場外ホームランも生で見て、当時のライトスタンドの空気は分かってる
@@tomon7834 まあ、星野さん自身監督だった与那嶺監督時代に先発、中継ぎ、抑えと投げまくったからね。楽天の監督の時も「先発は中5日で投げてもらう。それ以上なんて甘い事は言わせない」って言っていましたから。だからこそ田中将大を日本シリーズ第1戦に投げさせなかったのかもしれません。第1戦に投げさせると次は中4日で第5戦か中6日で第6戦となるからです。中5日で投げさせるには第2戦に投げさせた方がいいと思ったのでしょう。則本を行かせたかったと言っていますが、その本当の真意は田中を最大限に活用する為にも第1戦を捨てる覚悟があった為と思われます。ただ、この当時はまだとがってたんだと思います。確かに壊し屋と言われても仕方がなかったかもしれません。でもそれはストッパーの宿命でもあったんです。ただ、郭は壊れることを恐れなかったために優勝の立役者になり、あと一球という時に泣いていたのは「あの時の思いが叶う。あと一つだ」との思いがあったと思います。だから星野さんの訃報を聞いた時に悲しんだんだと思います。ただ壊されたんならそういう感情は抱きません。乱闘騒ぎの時に止めに入ったりしません。郭は星野さんの事を本当に尊敬していたから自分の体を犠牲にして構わないという覚悟があったのだと信じています。
菅原アナウンサーですかね。
88年の郭源治投手の活躍は神がかっていましたね。彼が居なかったら、この年のドラゴンズの優勝はなかった。
郭源治めっちゃ好きやったわ
郭源治好きだったなあ。
郭「10回はもう投げたくないので自分で打ちました」
槙原さんここにも登場…ネタに事欠かないな
3連続バックスクリーンとか、敬遠球サヨナラとか…
躍る守護神懐かしいなぁ
今も中日ファンですが、このころはまだ小学生で気が狂ったように応援してたなぁ、また父親が巨人ファンだったもんで、しょっちゅう言い争いしてました(笑)
槙原さんは記憶に残る打たれ方する
ナゴヤ球場のこの歓声の響き方が好きだったな
今のナゴドでは、現代野球では起こりえないドラマ
自分は1993年生まれだが、10年早く生まれて、この時代を知りたかった
野田健一 俺も1993年生まれ
タフネス郭だから、こんな無茶な起用法でもなんとかなった。
並の日本人投手ならとっくに潰れていただろう(近藤、森田、他)
ナゴヤ球場は名シーンが多いな。
郭はアマ時代は投手として投げない日はショートやってた
20年ちょい前までは抑え3イニングはザラだったね
抑えが1イニング限定になったのは大魔神やソンの影響かなあ
先発リリーフと奮闘、ちぎっては投げ、ちぎっては投げの闘志を感じる投手でした。
巨人の3本柱も凄いが、このような闘志を感じられないんですよね。
これ見てたぁ!
興奮してその夜に家で壁キャッチボールしたなぁ。
最高の守護神
郭を劇的に変化させたのは星野さんの一言だったって皆さん知っていますか?実はリリーフに回る事になったシーズンの直前に郭の弟が交通事故死しているんです。それでなくとも終盤に打たれることが多かった郭を牛島を放出する事で抑えに回すことは皆から反対が大きかったらしいです。でも、星野さんはあえて短期回を全力投球させるのにうってつけの人物として決断しましたが、郭は弟の死で傷心状態だったんです。その傷を引きずりながらマウンドに上がった時、星野さんが自らマウンドに行って「源治、弟が空から見てるぞ」ってたった一言そう言ったんです。その瞬間から郭は変わったんです。「この人を勝たせたい。優勝して胴上げさせてあげたい。その為に自分が犠牲になるというならばそれでもかまわない。ロングリリーフだろうが連投だろうが何でもない。ただ星野さんに栄冠を…やってやる」って気持ちになったそうなんです。それで燃え上がる守護神となってこの年セーブとセーブポイントの日本記録を樹立したんです。
巨人ファンの別所毅彦が「郭源治に抑えが務まるわけが無い」と地上波時代のプロ野球ニュースで吐き捨てていたの今でも忘れないよ。
現地観戦してました
救援の回跨ぎは当たり前の時代
当時のセの補回規定は15回時間無制限
だからやたらと投手を変えると後で困ることになる
たしか郭は佐々岡にサヨナラホームラン打たれてるはず。
しかし槇原ってこの試合だけで無く「セリーグ最後の完全試合投手」というより甲子園での3連発被弾とか新庄に敬遠球をサヨナラヒット、中日戦で8点リードをフイや、日本シリーズでのデストラーデの3ランとか「記憶に残る打たれ方」をする投手って感じだよな~😅
川■ω■)ピッチャーのサヨナラホームランって記憶にないなあ。。。
漫才面白画像 昭和48年に阪神江夏が延長10回にサヨナラホームランでノーヒットノーランで勝ってる。
1990年の木田優夫投手。奪三振王(この年までセ・リーグはこのタイトル表彰なかった)で12勝、キャリアハイでした。
この試合、見に行ってた。二次会が最高だった。
制服姿のまんまな。
踊る守護神
これ、ラジオがまともに聴こえなかったな。
最近ドラゴンズファンになったばかりで詳しくないんですが、郭源治が打席に立った時に流れてる曲は郭源治の応援歌ですか?なんと調べたら出て来ます?
モ 旧応援団の投手用応援歌です!
サバ磯野 ありがとうございます!凄く馴染みやすい応援歌でいいですね、、いつかまた球場で聴きたいです
また槙原かよww
3連発・敬遠サヨナラ・完全試合となにかと記憶に残る投手だなw
草
郭が3回投げても打席に立ったこと、序盤から失点している槙原が完投していることが共に今の常識からするとあり得ない。
これが3年後が カープが優勝だった
この時代なら7回から登板って普通じゃん。。。何みんな、野球ファンがとんちんかんなコメントして・・・どうしちゃったの?
普通でしたね。
郭、抑え投手なのに自分の背番号「33」の入ったマイヘルメットを持ってたのか。普通ピッチャーは「P」って書かれたヘルメットをかぶって打席に入ることが多いのだが。
MrTigret 元先発でしたしね…あってもおかしくはないですけど…
元々は先発だったからじゃね?
この日の中日は6点のうち4点を投手のバットで叩き出してるのな
2:21
He is god. byドラファン
打たれの誰かとおもったら 槙原かぁ
I am Taiwanese,台日の絆は、ワクチンが人々に免疫力を与えるように、民主主義国家同士が協力を通じてお互いのガバナンスを強化できることを示しています。困難な時代を、支え合ってともに切り抜けようという姿勢がこれまでにも増して鮮明になったとうれしく思っています。その深い友情に、心から感謝します。
この頃の巨人戦は見に行っても燃えたな。今の巨人に勝っても燃えまえんね😩
弟のこと、もっともらしく語ってるけど、シーズン前じゃなくて88年のオールスター明け頃の話だったんじゃないか?源治がストッパーに転向した星野1年目は、まだ弟健在よ。コメ主、自分に酔いすぎよ。
源治さんのサヨナラHR含め、中畑篠塚クロマティ。バンテリンドームなら全部ただの外野フライだ
このナレーション、たぶん中京テレビだ
郭源治って誰かに似てるなーって思ったらフランシスコ・ブスタマンテにソックリだな。
ジャンゴブレイクのブスタマンテ!!
通好みなそっくりさんだなーw
抑えに7回からっておかしいみたいな言い方はわからんでも無いが、郭源治はもともと先発でも100勝あげてるレベルのピッチャーだし回跨ぎは余裕でこなせると思うんだが
まぁ素人の考え方だからおかしいかもしれんが、先発でバリバリ出来てたやつなんだからやらせても不思議じゃ無いよね
孝政なんて7回くらいから勝ちゲームは連日投げてた それが普通みたいな感覚だった
やっぱり槙原
@keigoda
しかもまだ行くつもりやったし。
ここはもう代打でしょ。
視聴回数が88888でした・・・・・・・
中畑と篠塚のホームランはドームだったら多分スタンドまで届いてないな
miceli2363
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巨人は嫌いだったけど、篠塚は好きだったから、ホームラン打たれても気にならなかった。
(´・ω・‘) はい!また、槙原ですw
3年後の中日戦、開幕戦と7月に彼は好投しながら逆転負けを喫する
そしてこの2試合、○○ニュースの『息詰まるこの一戦』にノミネートされる・・・
今の野球がゆとりすぎ当時は抑えが6回から登板すら普通だったよ
pyopyo111 ???
抑えが7回からだもんなあ。。。
やっぱ星野は壊し屋だわ。
いや、この年はあの10.19の年だけど、近鉄の吉井も10.19の第1試合8回頭から投げてるし、第2試合も7回途中から投げてます。まあ、どちらの試合もその後に阿波野が投げていますが…
抑えが7回から投げて、しかも延長を見越して9回に打席に立たせる・・って・・オイ
いったい何イニング投げさせるんだあ?w
あのさ、ヤクルトの野村さんだってさ岡林を7回からリリーフに送って15回引き分けまで投げさせたんだぜ。この当時はこれが当たり前だったんだっつうの。
7回から投げさせて10回も投げさせる予定だったとか星野に呆れるわ
今と当時を比べるな。当時はセットアッパーの概念がなかったからクローザーとストッパーが同じだったの。しかも勢い守護神と呼ばれる抑えの切り札は1人しかいなかったから、勝てる可能性がある試合はそのピッチャーと心中するしかなかったんだって。どこのチームだってそうだよ。広島の津田だってそうだし、ヤクルトの岡林だってそう。この時ストッパーがいなかったのは西武位だよ。
@@user-oy1bn4sl3s 中日球場で小学生の頃よく行ってたけど、当時から中日ファンでは星野は肩壊すで有名だったんだよなぁ
@@tomon7834 まあ、星野さん自身が大学時代に肩を壊して、それをジャイアンツに見破られたから裏切られた。そういう経験から打倒ジャイアンツだった。でも中日は投手の墓場って呼ばれてたからね…でも当時はそれが当たり前だったんだよ。今はピッチャーの寿命を大事にって時代だけどさ。
@@user-oy1bn4sl3s その中でも星野だけが当時から中日ファンの間で壊し屋と言われ続けたんだって。小学生の頃に年間数十試合見に行って、近藤のノーヒットノーラン、清原の場外ホームランも生で見て、当時のライトスタンドの空気は分かってる
@@tomon7834 まあ、星野さん自身監督だった与那嶺監督時代に先発、中継ぎ、抑えと投げまくったからね。楽天の監督の時も「先発は中5日で投げてもらう。それ以上なんて甘い事は言わせない」って言っていましたから。だからこそ田中将大を日本シリーズ第1戦に投げさせなかったのかもしれません。第1戦に投げさせると次は中4日で第5戦か中6日で第6戦となるからです。中5日で投げさせるには第2戦に投げさせた方がいいと思ったのでしょう。則本を行かせたかったと言っていますが、その本当の真意は田中を最大限に活用する為にも第1戦を捨てる覚悟があった為と思われます。ただ、この当時はまだとがってたんだと思います。確かに壊し屋と言われても仕方がなかったかもしれません。でもそれはストッパーの宿命でもあったんです。ただ、郭は壊れることを恐れなかったために優勝の立役者になり、あと一球という時に泣いていたのは「あの時の思いが叶う。あと一つだ」との思いがあったと思います。だから星野さんの訃報を聞いた時に悲しんだんだと思います。ただ壊されたんならそういう感情は抱きません。乱闘騒ぎの時に止めに入ったりしません。郭は星野さんの事を本当に尊敬していたから自分の体を犠牲にして構わないという覚悟があったのだと信じています。
このナレーション、たぶん中京テレビだ
菅原アナウンサーですかね。