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「ありましたか。また、あるとしたらどんなことですか。」と質問したら求める答えを書いてもらいやすかったと思います。だから、問題文が良くないかも。
同感です。回答は何も悪くないのに相手を責めるなんてひどすぎます。よく言われる「質問力」ですよね。日本は欧米に比べて質問する側よりも質問を受ける側のほうを責める文化が強いです。欧米が正しいとは言いませんが、もう少し質問する側も責任を持って/負って、わかりやすい質問というか、自分が欲しい回答が来る質問を考えて話すべきと思います。
その時はなかったですって答えたら良いな
@@kusu- 空気が読めないのは悪いという文化なんでしょうね。そこはそれってわかるでしょ?っていう暗黙の了解を分かれっていう。
@@maron5812 「空気が読めないのは悪い」のもそのとおりですが、さらに「わからないところがあったら聞き手が能動的に聞くべき」という文化が日本は強いと思います。これはふつうによく上司が言うことなので「思う」ではなくほぼ事実と思います。それに対して欧米は「聞き手がわかっていなさそうかは話し手がケアしなければならず、能動的に聞き手に対して確認すべき」です。「日本は欧米に比べて質問する側よりも質問を受ける側のほうを責める文化が強いです」をもう少し具体的に言うと、上記のようになります。繰り返しますが、欧米が正しいとは言っていません。差があるという話をしているだけです☝
分かる。会話なら「ありました。〇〇な点が〜」と話続けるのがコミュニケーションとして適してるだろうけど、質問の回答として記述するのであれば、「ありました」が正しいと思う。
「ありましたか?」「ありました。」はダメな回答ではなくダメな質問だとしか思えない自分の国語力の無さを棚に上げて相手の理解力のせいにしてるだけじゃないの?
日常会話で聞いてるならまだしもテスト形式で聞いてる場面で個人の有る無し「感覚」を聞く筈がない、 というのが推測、理解出来ないのは 強めのコミュ障、発達障害ワールドにしか思えないけどなぁ
ワザと欠落した質問をすることには意味があるかもしれないよ。法律的な文章を正確に解釈するための能力に、文章の作り手の意図を正確に推測する能力が必須なんだってさ。例えば「筆者の考えを述べよ」というよくある質問は、そういう能力をテストしているという事らしい
@teco6964 「ありました。」の後に「どんな点がいいなと思ったか」を書いても個人の感覚であることに変わりはないのでは?
「(君が良かったと個人的に思う点が)あったか否か」を聞くはずがない、ということ。その後の「どこが良かったと思うか」の個人的感想や推理の回答については禁じてなどはいない。ただテストなので正誤はあるから例題の筆者などの心理を推理する必要がある。そんな時に 「あったか否か」で「あった」という回答は さんまのカラクリTVのじーちゃんのボケ回答だよ。
同意する。小中学校のとき、国語だけじゃなく、理科の2分野なんかもよくあった。模範解答を見ると、その問いだけで、その解答には到達できない。それを解答させたいなら、質問を変えるべきと感じたことが何度もあった。
〜はありましたか?という設問は出題者の意図を文字で伝えてないからコミュニケーションとしてアウトだと思うけどな。意図を読み取って答えろというかなり横着な設問だろ。
質問の仕方が間違い。『ありましたか?』だけでなく、『それはなんですか?』『ない場合は、ない理由はなんですか 』だろう。
ビジネスの世界だと、文脈を読み取って余計な説明するより、まず聞かれたことに答えろよってシーンも意外と多いと思いました。
それは多くの人が誤解している話だね。それこそ文脈と意図、求められている抽象度(情報の粒度)をきちんと理解せずに「聞かれたことだけに答える」なんて話を真に受けたらハマるw
@@OrangeCamus上手い!
ほんとその通り。私はアメリカで20年間社会人やってますが、英語圏では、Yes/Noの質問をされて、文頭でYes/Noを言わずに先に言い訳や理屈ばかりダラダラ話し始めると、理屈はいいからさっさとYesかNoを答えろと怒られます。
@@Yasco-de-Jp そりゃ、ハイかイイエで答えるような質問されて余計な話を文頭に付け足せば英語圏関係なく怒られるか「あ、ダメだコイツ」って思われて当然だよ。状況や文意どころか言葉を理解してないじゃん。
ビジネスシーンだとローコンテクストの方が合理的設問も主語と目的語を明確にするべきですね
子供の頃「ありましたか?」と聞かれたテストなかったよ。問題が変だよ。
質問が不十分だね。
国語が苦手な茂木を笑うな
「ありました」の回答は絶対正解ですよね。こんな風に、大人の質問が悪いのに子どものせいにしないでほしいです。わたしはコーチ=質問のプロですが、まさにお弟子さんには「『〜はありましたか?』というクローズドクエスチョンをすると『(はい)ありました/(いいえ)ありませんでした』という返答が返ってきて会話が広がらない。なので、『〜はなんでしたか?』とオープンクエスチョンにしなさい」と教えています。この問題文がクローズドクエスチョンだから悪いんです。「〜いいなと思ったところはなんですか?どこをどういいなと思ったのか、具体的に書いてください。」と質問しないとわからないです。
国語教師です。「筆者の考えで『よかった』と思ったところはありましたか」は、出題方法が悪いのです。先生が聞きたいことが何なのか、明確にとらえられる出題文をかくのが、一般的です。これなら私でも「ありました」と答えたくなります。ただしこれは、日本の文化が影響していると思います。言葉に出さなくても伝わるだろう? 空気読んで。こういう文化に身を置いていると、こういう質問もするし、何なら友人同士の会話であれば、この出題方法と同じ論理で進んでいきます。昔、シナリオライターになる学校に行ったときの授業で、「出かけるの?」と妻が効いたら、夫に「うん」と答えさせるのではなく「靴を買いにいくんだ、渋谷にな」と答えさせて、一度で情報をできるだけ伝えるようにしなければ、フィルムも時間も無駄。見ている人も一問一答形式の会話は耐えられない。と教わりました。相手が聞きたいことが何なのか、空気で読めていた時代は、「筆者・・・ありましたか」でよかったと思いますが、空気を読まない人が多い(空気を読むという言葉が出てきたこと自体、読まない読めない人がいるという前提です)今は、この出題文では問題を成立させるのは難しいと思います。
@@ノア-s3c 自分は、父親が英語教師で、先に英語のフォーマットを教えこまれたのですが、今は、英語を学びはじめる年齢も下がってきていて、日本語の行間を読んだり、空気を読んだりするのが、それ自体、わかんなくなってくるのかもしれないです。
デジタル化が進んだことで空気を読まずそのまま受け取る必要が多くなったからかもしれません。プログラムを書くと日本語のはい、いいえもややこしくなります。英語なら絶対的なので悩まないのかなぁと思ったりします
詩に関するテストで「作者は何を言いたいのでしょうか」というものが小学生のときあった。点が欲しいので模範解答を書いたが、『言いたいことが確定してるなら詩である必要はない』と思っていた。
問いが良くない。「良かったところはありますか? またある場合は、どのような点が良かったのでしょうか?」という聞き方であるべき。あるかないかで訊いているのだから、ある/ないで回答するのが先で、正解。
「ありましたか?」で「ありました。」と返答するのは、コミュニケーションとして変ではあるけどテストでこれを不正解とするのは間違いだと思う。同期コミュニケーションでは相手の真意を推し量ることが最優先になる場合が多いけど、テストは論理的整合性が前提となっていなければ点数のつけようがなくそちらの優先度が上がる。だから「何が〇〇でしたか?」と問うべきだったと考えます。
ありました。で満点やろ。
むしろこういう回答の仕方を教えて欲しかった。
問いに対する的確な解答なので、満点ですね。むしろそういった解答が来ることを予測できなかった教師側の国語力が低いと思います。
俺そもそも「〇〇はありましたか?」なんて問題見たことないわ
会社員の世界ではこれが常識ですよね。問いに対しYES.NOの回答をまずするのは面接でも、上司への回答でも。
ですよね。🎉
サムネの聞き方は、はい or いいえ の質問の仕方です。問題作者が質問の仕方をわかっていないのが原因です。子供のせいにするの絶対に許せない。多分、ありましたか?の後に、どういうところでそのように感じましたか? とか理由を聞く質問を付け加えるよね普通は!!
1:20:36 「なんで英語はむずむずしちゃうのか」っていうのは日本人の言い分で、向こうからすれば「なんで日本語は省略しまくっちゃうのかな、むずむずするでしょ」って話ですよね😄
すごーく面白かったです広瀬先生、一切エゴとかご自身の自己アピールっぽさが微塵も見えなくてとにかく気になること 不思議に思うことを純粋に学問として探求されていて心の底から楽しんで没頭されているのがとっても素敵でしたそしてとても面白かった私自身 国語の試験は苦痛で仕方がなく、今中学生の息子も同じくで、どう割り切って社会の枠に馴染もうと折れるか、を考えるところなので子供の返答はそのまま受け止めようというお話は納得出来来ました
3:58 読解対象の文章の趣旨を問うのが国語の問題なはずなのに、受験者側が出題文の趣旨まで考えなければいけないテストが悪いと思う。
レゴブロック2つを組み合わせると1つになるのに、なんで1+1=1じゃないんだろうって悩んだこと思い出しました。
それは数学で定義されてるから1+1=2です
定義って約束事みたいなもんですから、その約束事の中での話をはみ出すと、根本的な理由にはならないんですよ。
その1とその1は従属関係に有るので、確率論で数式化すれば「1×1=1」が正解✨
@@miracle-mint それだと2×2=2=1になっちゃいますけど。。。
なんか、それぞれ三人ともが、自分から無理に話を広げようとして、話がとっ散らかって、聞くに耐えなかった。せっかくすごい専門家が来てくれたのに、一緒に話を進める方の人選が残念でなりません。ハセンさんとか話を最後まで聞いてくれて、話の方向をうまくモデレートしてくれる人がよかったです。
小学生の時、国語テストの「この時の登場人物の気持ちを考えなさい」みたいな設問に対して、「考えました。」とふざけて回答した友達がいたのを思い出した。勉強が得意な友達だったから、当時は頭がいいと考えることが違うなと素直に感心した。
私なら「はい!」と答え、先生に「考えた気持ちを文書に書きなさい!」迄言わせる!
それどこの俺よ笑
YES/NOを聞いている質問にYES/NOで答えたら何がダメなんだ...。会話では具体的な内容も触れる方が自然かなと思うけど、学校のテストや受験のルールだと聞かれたことに端的に答えてそれ以外は答えないのが普通じゃなかったっけ?
日常会話でも、Yes/Noの質問に答えるのに、YesなのかNoなのかを最後まで言わずに答えに至る過程を延々物語調に語る人がいる。反論されにくい下地を固めてから答えたいんだろうなあとは思うのだけれど、正直心底イライラする。答え言えよ!と。
ゲストの先生の話をしっかり聞きたいです。ホストがコロコロ話を変えてしまうので、ゲストの先生の話がしっかりと聞けません。せっかく良い番組なのにもったいないです。
私も同じ事を書こうと思ったら他の方がおっしゃってくれましたので短く書きます。ゲストの話の途中で茂木さんが声高に自分の話を差し込んでくるので、聞き苦しくなり、途中で諦めました。可能なら別の方に変えてください。
@@tosyusaiさん。同意です。可能じゃなくても変えて欲しい。
私も「ありました」と書くタイプです。高校生の時は国語の偏差値は常に72以上でした。国語なのに論理的な設問を作れないダメ教師には、全員がyes or noで回答して設問の悪さに気付かせてあげるのが優しさです。忖度は対象の育成を妨げます。
国語の問題だと、一応プロである教師の問題作成に問題があるのかも知れないけど、一般社会は忖度や省略だらけ。そういう意味ではこれも社会学習と言える。日常会話でそこまで厳密に論理的に言葉を使うことはないし、「何かあった?」と問われた場合、あったかなかったかより何かしらの話題・内容を相手は知りたがってることが多い。論理性より重視される会話力。文意を裏読み深読みせず文章通りに受け止めてしまうのは真面目な子や発達障害の特徴だけれど、じゃあそれでいいのかと言えばそれも良くないと思う。(「ありました」と書く)私を分かってよ、と相手に求める以上は、私も相手を分かってあげなくてはいけなくて、先生の設問のミスなのかも知れないけど、そこを理解して察して対応してあげるのも優しさ。全員がそこを理解した上で無視してイエスかノーで答えるのだとしたらそれはそれで怖すぎだしイジメにも感じる。先生もまた完璧ではなくともすれば発達障害かも知れないのだし。人を責め咎めるとき、その矛先は自分にも向いている。言語能力の低いもの同士、発達同士で殴り合う虚しさ。
@@120cm5 一般社会の忖度や省略の話はここではしていないです。どの教科においても小中レベルの試験において複数の回答が出ないように設問を作成するのが教師の役目であり必要な能力です。論理的にまかり通る回答があった場合、それは教師側が非を認めて許容し正解にするべきです。大体小学生に忖度されないと成り立たない国語教師という時点で、社会に不要なレベルだと思うのですがいかがでしょうか。
@@120cm5例えばこれで「Yes」とだけ答えた子の“国語力が足りない“のではなく“非言語コミュニケーション力が足りない“のですから、(国語)教科の成績に結びつけるのは違うと思います。ふんわりした質問文が発達障害のスクリーニング→生徒の早期療育、と良い繋がりになるなら良いことですが、テストではなく成績と関係のないアンケート的なものであるほうが適切ではないでしょうか。
国語は論理力だけを測ってるんじゃない、認知力もその計測対象。教授はあくまで「誤用論と無下にすべきではない」と言っているのであって決してyesnoで答えるのが正しいと言っているわけではない。決してダメ教師でも忖度でもない、曖昧さを含めることで適切な範囲まで認知を拡張する能力を試している。お前はバグみたいな攻略法で"異常な"国語の点数を出してるだけで実は国語力無いことを自覚したほうがいい。
@@120cm5 国語のテストは日常会話とは違う。その違いすらわからない大人が国語の先生をやってるのが恐ろしい。しかもこんな設問をする先生に対して、周りが優しくしろとか、呆れて物も言えない。
論理的には、「筆者の考えで『良かった』と思った事はありますか?」では、寧ろ「ありました」か「ありません」が正解で、何が良かったかで書くのは間違い。書かせたいなら「筆者の考えで良かった点を書いて」にしないと。
問題の作り方が悪いだけ。ありましたか?に対してありました。は正解。問題を「ありましたか?ある場合はそのわけを書いてください」とするのが正しいです。
広瀬先生のお話を深めるのが進行役の仕事だと思いますが、茂木が先生に対抗するかの如く知識を無意味にひけらかして過去の偉人の言葉や学問上の用語によって短絡的にまとめてしまったりするので、邪魔にしかなっていない。進行役は、相手の知的レベルまで達していて尚且つ、それに光を当てて十分に引き出す力量と器量が要求される。茂木の浅はかな人間性では、広瀬先生の持つ海のような広く深遠な知性を余すところなく聞き手に伝えるのは到底無理だと思った。
とても同感です。いかに自分が知識をもっているのかを見せつける役は必要ないと感じます。
茂木さんの受け答えには、学問の間口を広げて特定の知識のない一般の人にも広瀬さんの話を理解してほしいという思いを感じました。オタクはオタクの仲間内だけで面白がっていればいいよ。
もう一度言いますね?広瀬さんの話を深めたら異次元に突入してきっと誰もついて行けなくなります。引き出しの多さで言ったら茂木先生の右に出る人はそうそういません。私は茂木先生は適役だと思います。
ほぼ半世紀前の友人の話。「次の漢字をよみましょう」という小1の国語の問題に「うちの子は、ちゃんと小さい声で読んだと言うのよね。問題がおかしいよね〜」という話に、激しく同意した記憶。低学年の子供に、いまだに、こんな設問の仕方をしている教育者に、考えて欲しい問題です。
中学生になっても、大学入試でも、そういった誤解を招く悪問がありますなんとなく日本語を使っているとはいえ、日本語自体の曖昧さを踏まえて作成して欲しい。そんな雑な問いかけ、誤解されない丁寧さは子供の見本になりますよね。一学校の定期テスト位では泣き寝入りするから教師に緊張感がないのかなと思いました。わかってもらえて当然と思っているのは怠慢かな┄
悪問とも言えるし、その曖昧さを読み解く文化的背景を内面化していくことで、いわゆる日本人が完成するので、バツをつけられるのもそうした社会化のプロセス途中ということなのかなとも思いますね。
うーん、このコメント自体がハイコンテクスト過ぎて俺にゃよくわからん。ちゃんと小さい声で読んだというのが本当は声出しちゃいけなかったのか、それとも逆に大きな声を出さなければいけなかったのか。問題がおかしいとはどういう意味なのか。ぶっちゃけあなたみたいな人がいるからそういう問題が減らないんだと思うよ。
おっしゃるように、基本的にテストの問題文のようなものは解釈違いが起こらないに越した事はないので、精一杯配慮をしてます。テスト問題を作る方も人間だから、曖昧な表現が残ってしまったり、そもそも生徒の年齢や能力によっては正確だけど難解な言い回しはかえって伝わりずらかったりする場合もあります。今はそういった曖昧な表現は出来る限り排除したり、管理職複数人でチェックしています。それでもテストで数人の生徒が勘違いをしたり、伝わって無い場合もあったりして、次にはそういったことが減るように改善しています。そして現在教員は不足しています。
@@Raeliana_Macmillanこれ、同意。このコメント自体が既に読み手の解釈が必要
サムネに興味を持ち見始めましたが、途中でサムネ見返しました。茂木さんが話始めると、あー、良いところでCM入ったみたいな感覚に。。
話 ➡ 話し
両方あるんよな。指示したことについてやったかやってないか聞いてるのに、やってない言い訳を言い出す人。いや、まず質問に答えてくれ。こっちはやってないならやってないで対策を考えたいだけやから。ま、自分も言い訳言っちゃう人なんやけど。
「かくものある?」と聞かれたときにペンと紙のどっちが必要なのかわからないな、と考えたことがありました。これも多義性の一例だと思いました。
先生が「きつね」と「きりん」を関西弁で発声した以降、言葉が全体的に関西イントネーションが強まったのがおもしろいですね。私も関西人で同じ現象が起きます。何かしら脳が切り替わっている気がします
仰る通りですね!感じました!話変わりますが、「赤トンボ」歌にすると全国各地で発音が変わりますね!みんな垢とぉんぶぉ~♪に、なります!
なりましたね。生まれも育ちも関東の私にもわかりました。広瀬さんの関西弁ネイティブの肩の力の抜けた会話を聞いてみたくなりました。
学生の頃発達心理学を学んでいたのでとても興味深かったです!国語私も大の苦手でした。求められる答えを書けない子でした。
確かに文章で書くときは、「青い猫の傘」とは書きませんね。「 猫の模様の青い傘」か、「青い猫の描かれた傘」か。曖昧さを排除しようとしますね。
ですね。飼い主が青い猫に傘を付けていても「青い猫の傘」ですから。
48:03 「太郎」と「花子」を混ぜて「たらこ」って言ったのは純粋な言い間違えだけど、子音と母音をぶった斬って「太郎」の前半分(tarouのtar)と「花子」の後ろ半分(hanakoのako)をニコイチして「たらこ(tarako)」ってなってるの面白いな
問題の問い掛け方がどちらとも取れるような表現のものも多いきがします。だから考えてないわけではなく、自分の意見を述べよと言われたらちゃんと書けるんですよね。
見方を変えれば出題の文章がどちらでも取れる。なので「あります」でも正解、出題は「良いと思ったところを書きなさい」の様な具体的指示をしないと!
一つ前の設問では「書きましょう。」なので、知ったことを書いている。次の設問では「ありましたか。」なので、あったかなかったかを答えている。五.設問は「〜と思ったところを書きましょう」とあえてしてないわけですから、この回答は正しくないどころか、四.設問との違い(関係性)を読み取った質問者に対する高度な配慮がなされた回答だと思います。逆に、五.設問に該当箇所を書いてしまうと、「四.設問では書きましょうとしましたが、五.設問では書きましょうとはしてないですよね?」と問われてしまう可能性があります。該当箇所を書いた子は、質問者の意図や要求を汲み取っているとも言えますが、設問の変化に気付けず惰性で進めてしまう傾向があるとも言えると思います。この子は設問を正確に認識する能力が高いと思います。
小学校の算数や国語のプリントを見ていて、質問の言葉、説明が足りてなく子供が理解出来ないことたっくさんあります。質問の仕方がそもそも多くを語らず理解せよ。って感じで、パターンで覚えるしかない😢
そうやってちゃんと忖度できる日本人が出来上がるのてすよね。
自分は「ありました」って答えたい派ですね。実際には質問の意図として、内容も答えてほしいというのがわかったので、きちんと内容も答えてましたが、本当は「ありました」って答えたかった。当時も今も、様式美とか、暗黙のルールかと思って従ってますね。
それなら見るなという点は置いていただけると大変ありがたいのですが、竹下さんだけで本当にいいです。竹下さんの鋭い質問だけでお願いしたい。。PIVOTに茂木さん多分いない方がいい。。
最後の竹下さんのコメントにあるように、広瀬さんの著作を読んでから、子どもの紡ぐ言葉が別の景色どころか、宝物に見えるようになると思います。ぶっ飛んでいて面白かったので、ぜひ今度は教育の研究者と広瀬先生の対談を聞きたいです。
ありましたか?ってなんちゅー質問の仕方。だから何?ってなる。総じて年配方の会議がこうゆうはっきりしない感じで進行するときあって、結局何がどう決まったかわからない。
質問文に問題があるに決まってます。行間まで読まなければいけない文章は、大人になって大きな問題にぶち当たります。
文章全体や会話全体の文脈までを理解して応答するか、1文だけで答えるか、末尾のフレーズ、単語で答えるかといったあたりの話で、何を求められているか理解したり踏み込んだりってことができないか、ちょっとヒネちゃってて、別にっ。って感じでひねくれて答えていたら、違うでしょって教えてあげるのが理性をもった大人の対応かなぁって感じました。幼い対応を面白いって取るか、幼い行動と冷静に受け止めて指導してあげるか、大人側の受け止め方や、受け止めて正常に対応する能力が下がっているという問題があるのではないだろうか。などなど、大人側の捉え方の問題もいろいろと考えさせられますね。ただ、昔の問題はありましたか?ではなくて、感じたことを述べなさい。と明確に問うていたのでは?ここで感じるのは、言語の理解、正確な表現力が下がっているのは子供の方じゃなくて、大人の能力が下がっていて、子供が本能的に疑問を持つことでおおしろい答えが返ってきていると感じるのでは?という見方もあるかと。
もしかすると国語の指導要綱に 忖度させる というのも入ってるのではないかな。それならそうと 忖度しましょう! って生徒にちゃんと指導してもらいたいですね。
素直な答えだと思いました。微妙な設問にも察してあげるのを続けてたら過剰適応で参っちゃう。大人なら、設問下手でごめんね違うことが聞きたかったんだよって、反省して欲しいです。大人がそういう態度をしたら、子供はそこからたくさん学ぶと思う。
会話ならともかくテストならば裏を読ませるような風に書くのが悪い。100人に聞いて全員が質問の意味をわかるように書くべき。この書き方をした人は先生失格だな。
運転免許の学科試験とかにも言える話だけど
@@りゅうせん-b5x運転は論理だけでなく、安全のためには忖度や思いやりやおせっかいが重要だからでしょうね。
ひょっとして、国語の学習指導要領に 忖度できる人間に洗脳すること が含まれているかもしれませんね。怖〜w
1:26:45 この感覚は私が感じたとも似てるかもしれないと思いました。小学生くらいの時期のみでしたが、現実に誰かと話してる速度と自分の頭が切り離された感覚。ヤバいまた来た!もっと早く話さないと、 という変な感覚と焦りだけが脳に取り残されるけど、現実の自分は冷静に話してる。そしていつの間にか統合されて直る。似た人がいると知りドキッとしました。変な話だから誰にも言えなかった。
「あおいねこのかさ」は 「青い色をした猫 が 傘を持っている姿」 しか浮かんできませんでした(ファンタジーの世界のような)ちなみに群馬県出身ですが「いちご」は単体だと「みかん」のようなイントネーションになり、「いちご狩り」になると「りんご狩り」のように平坦になります
あおいね、この傘かと思っちゃったねこ、だったのね
いちごは越後と一緒。軽井沢はいちご狩りと一緒だいねw
NHK日本語発音アクセント辞典では、厨房は「ちゅうぼう ̄」だけですけど、中央は「ちゅう\おう」と「ちゅうおう ̄」の両方乗ってますね。
@@美加萱沼 さん仲間!笑わたしもまんま同じように思いました!!
国語苦手だったけど本読みまくった成果なのか、得意だった人より分かるようになってて、不思議だなぁって😊
ニュアンスも大事てすし、ことばの明確さも大事。臨機応変に真実を見極めて❣️✨
そもそも問題を出す方の国語力を問いたい。こうやって質問されたら、「ありました」だけじゃなくて、内容を聞かれてると解釈する人が高得点を貰えるんでしょうけど、実際社会に出て、仕事となると、「余計な説明とか理由なんて良いから!YESかNOか、聞かれたことだけ答えて!」ってよく叱られるんですよね。質問してくる相手見て答え方考えなきゃいけないんだよね。面倒くさいね
1:26:00 数秒間、目の前の現実世界が遠退き隔絶感を感じる、あるいは、並行世界に転移した感があるってやつですかね。「並行世界滑り感覚」とでも呼ぶのが良いんじゃないかなと。
教育上の国語の問題としてこの解答を間違いとしてはいけないだろ。一方で、日常生活であれ仕事上であれ、コミュニケーション能力としては相手の発言の意図を汲んで回答する必要もある。
茂木さん、ポジションばかり気にしてて、話がまるで進まない。MCはほんと向いてないよね。
茂木さんがいないと、番組が成立しないのではないかなあ。司会者と学者だけの番組だと、私のような素人でカジュアルに科学を知りたい層は、番組を見ようと思わない。茂木さん、グッジョブだと思う。
@@tgmdt85220 茂木さん、話が本人が聞きたいことを思いついたまま聞いてる?知ってることを言いまくってる?全体の流れをあまり考えられて構成できてない気がします。
関西では、『茶色の~』のニュアンスでも色々あって、それぞれ意味合いが変わってくるからね。全部低音ならその後にくる名詞を伝える含意があって、『の』に高いアクセントがあると、『茶色』という色を伝える含意になる。
それは関東でも一緒じゃないかな
欲を言えばもっと言語学の話だけを聞きたかった。茂木さんは学歴厨なので(笑)すぐ学歴の話になっちゃうけど、PIVOTの方向性は、無駄を省いて究極的に濃いコンテンツにすることだと思うので、言語学の話にフォーカスすれば神回になったと思う。広瀬さんから現実社会からの離脱の話を引き出したのは竹下さんだった。さすが竹下さん。これってルイスキャロルとかジョンレノンも経験してるんです。言語化できないことは作品で残すしかないんでしょうね。
同感話を脱線させてるように感じました。
これは「ありました」が正解。国語の問題なので、問題文を読解できてるかの判断が重要であり、問題で聞かれてなことを「理由を聞いてる」と勝手に判断して解答するのは明らかに誤り。これがわからない人も増えてきたのかね。
とても興味深いお話でした。先生の本も買って読んでみようと思います。「この言い方はミスリードしているだろうな」な場面を見るのが好きなのですが、時間が経つと具体的に何のことだったか忘れてしまってもどかしくなることがあります。以前ITに詳しい人に「英語と比較して日本語で致命的に欠落しているのは主語よりも目的語」という話を聞いて妙に納得した記憶があります。日本のシステム開発の要件定義でおかしなことになるのは、この辺りが影響しているのかもしれません。
メール等で誤解のない論理的な説明をすることはとても難しいです。口語ではありえない“括弧”でまとめたり、口語と同様にスペースを開けたり、複数の文にラベルを付けてプロック化したものを主語や目的語に使ったりていうことが必要になります。(英語でも同じかな?)
22:50~の分数の話で0にしてしまうというのは多分"消す"、"消える"という表現が"0にする"に直結してるのかな実際に計算させてみて挙動を認識させりゃ理解も進みそう。何故省略してるのか、出来るのかの部分の理解が不足している風に感じた
前に深夜の某TV番組で、出題された文章の著者と一緒にセンター試験の問題(物語)を解いてみよう!って企画をやっていたのを思い出しました。著者は何問か間違えていて、問題解説役の高校教師に、「広辞苑ではこの意味が載っているからこの選択肢はおかしい」みたいな理詰めのお叱りを受けて納得していました。広辞苑はその時代にメジャーに用いられる語法をまとめた虎の巻に過ぎないのに、その広辞苑を根拠に著者の考えを否定することに、ほんの少し違和感を覚えました。
日本語で「〇〇ありましたか。」の質問に「ないです。」の答えは、耳の聞こえにくい子供や自閉症スペクトラムのタイプに傾向あるそうです。
子供を相手にする問題を作ってるのにこの聞き方をする先生の頭があんまり良くないと思う。
求められる答えは質問で変わるのですよね。
昔からよく音声入力を使ってるんだけど、昔は単語と意味と文法的な事から推測していて間違える時は何度も繰り返す感じだったけど、最近のはイントネーションを少し変えると出力結果が変わるから、そのあたりの情報も考慮し始めたんだろうなぁ
寧ろ考慮しないで自然に任せたら精度上がった
もし、僕が質問をするならば「筆者の考えで「よかった」とあなたが考えたところはありましたか?あった場合は問①文中の「どこから」そう考えたか?問②、①の個所からあなたが「どう考えた」か?その考えについて述べてください。なかった場合は問③なぜあなたはそう考えなかったのか述べてください。というまどろっこしい質問になっちゃうかも、、、、
41:56「青い猫」の傘も、猫の絵の描かれた傘だけでなく、「青い猫」が所有している傘とも解釈できる。
言語が文化の大部分を担っているので、言語を上手く扱えない人と扱える人で格差が生まれているのもこの言語理解に深く関わっているんだなぁと思いました。すごく面白いお話を聞けて良かったです。
「ありましたか?」って聞かれたら、「ありました」って書くでしょ。ちゃんと問いかけに「書きなさい」って書くべきだと思うけど。察してちゃんかよ!!って思います。 日本ってハイコンテクスト文化だというけど、あまりに空気ヨメ、を貫かれると、人の意図を理解するために余計なことまで神経を使わなくちゃいけなくて疲れる。日本語はあいまいな表現が多くて、だから、政治でもなんでも、あいまいに物事を政治家に都合のようにに済ませれるようになっていると思し、もう少し論理的に相手に確実に伝えたいことが伝わる文章の書き方や話し方を教えないと、問題意識をもって物事を解決する思考も育たないと思います。
結構いい加減な教育現場で苦労して、社会に出て法制執務で条文を読むと安心することもある感じ。
こういう文化もあって発達障害グレーゾーンの人もかなり生き辛いんだと思うわ。意図することはストレートに表現しないとコミュニケーション出来ないと思うな。他の文化圏でも相手に気を使って婉曲表現したりもするけど、日本は世界的に見て度を越してると思うわ。既に社会が複雑化して、近場の人としか交流しないような村社会じゃ無いんだから教育から変えるべき。
はっとさせられるところが多く、とても面白かったです。言葉の曖昧性、表裏、抑揚、いろんな視点を感じることができました。
「ありました。」「ありませんでした。」以外の答えを書いたら質問文で問うてないことを答えたのだから×にするのが国語教育としては正しい。そのつもりで問題文を書いたのでないのなら、サムネの見出しは【国語が苦手な子ども】ではなく【国語が苦手な国語教師】とすべきだと思う。質問したいことを端的に問う問題文を書けないのだから。
LLM台頭のおかげで言語学が盛り上がってて嬉しい。Attention is all you need的な。脳科学と結びついて、アブダクション推論とか、認知・思考・知性そのものに切り込んでいく最近の言語学はアツい。
たんに質問が悪いのでは?ありましたか?と聞かれたらあるかないかで答えるでしょ「いいな」と思ったところとその理由を答えてくださいと聞かれたら「ありました」とは答えないと思う
22:39 定理→定義の誤字(聞き間違い)です。分数の定義は、本当は数学的には整数の対に同値類を入れなくては厳密に定義できないものです。(有理数)小学生では(指導要領に沿って)それを噛み砕いているに過ぎません。そういう意味で、このような必要な議論は教育学的にも意義を持っています。(かく言う自分も塾で分数を教え初めて真剣に考えました。)蛇足ですが、自然数では1か0を(集合論的に)前提としています。次に1を5860回足すと5860になります。足し算は集合論的に保証されます。(ブルバキを参照)子どもの疑問は真剣に解決されるべきものなのです。徒然草最終段もそれを我々に教えています。
質問に欠点があるだろう。「有ればその理由を、無ければ無いでその理由を書きなさい」が正しい質問の仕方。あ、うんの呼吸でこちらが求める答えを書いてくれると思うのは、それこそ大人の傲慢さだと思うが!私はこの子の答えは普通だと思うぞ!
おもしろかったです!言葉って本当に深いんですね。実は普段意識せずにすごく高度な情報処理をしているのかもしれないけれど、言葉というものが身近過ぎて、当たり前すぎて逆に気がつかない。今言葉について考えているこの思考自体も、(考えている対象になっている)言葉によってなされているという...迷宮...
めさくさ楽しくて、脳汁がドバドバでました。また、この3人の話を聞きたいです。私も大学1年の頃にクオリアを体験しているので、その話が出てきてびっくりしました。自分だけじゃなかったんですね。
体験ってどういう事ですか?
周囲の出来事や人々、自分自身に対して現実感がなくなり、夢の中にいるような奇妙な感じに襲われる状態を体験しました。
分数の話で、分母と分子が同じ数の時、例えば「5分の5」の時に、子どもが「0分の0」にしてしまうのは、たぶん、「分母と分子が約分されて消える」の「消える」のところを「消える=無になる=0になる」と考えたからでしょう。小学生は四則演算を加→減→乗→除の順番で学ぶので、「足し算をキャンセルしたければ引き算しろ、さすれば消えてゼロになる」という刷り込みが入っていることでしょう。この「刷り込み=ルール」を分数に適用すると「5分の5」は「0分の0」です。正しく教えるには、「消える、と言っても実は2種類ある。足し算を引き算でキャンセルしたら0になって消え、掛け算を割り算でキャンセルしたら1になって消えるのだ。1がなぜ消えるかって? 分母の1は省略されるからだよ。逆に言うと、全ての整数はその分母に1を隠し持っているんだよ(=有理数)。」となります。
面白い話でした。幼少期から疑問だった事は言語学についてまだ未熟だったんだと痛感すると同時にそんな考えて会話できないよって絶望も感じました。しかし、言語って深い、深すぎる。
定義が受け入れられないって、名言だな。
今の国会のやり取りでよくわかるイエスかノーかで答えてくださいってよく言うよね本当は、答える方はそこに至った理由を言いたいだろうに、ごまかしみたいに受け止められるのもお互いの考えの違いやからな。どんな答えを欲しいかを明確に問う方も考えないと。
最高におもしろい回でした!ありがとうございます😭
非常に面白く、新しい興味が生まれました。これが、目から鱗って言うんでしょうね。これを聴いて、でだから何?なんの役にたつのって感想も何故そう思うのか、研究対象になりそう。言葉と言語の違いは、少しだけわかった気がします。
算数・英語(言語)・イメージを論じていて大変に興味深い。私個人としては、会話等の日常の言語使用の場面では「言葉の感じから類推しながら話を理解してゆく」事が行われているのでは無いか、と思います。それに対して同じように数学等の理系の事を理解しようとすた時に「単語の感覚、言葉のイメージから類推してしまう人もいる」のだと思います。そうした人にとっては定義をいくら説明しても「なんで、その定義になるの?意味がわからない」となります。例を挙げます。例1飼い主は自分のペットに「白猫」と名前を付けている。そして昨日友達になったひとに「私の白猫ここに連れて来てもらって良い?」と言われて探したが何処を探しても見当たらない。「早くしてー」と言われてたので「貴方のペットの白猫、何処にもいないよ!?どこ?」と聞いたら「いるじゃん。そこにいる黒い色の犬のことだよ。その子名前、白猫って言うんだ」と言われたとする。何故見つけられなかったのかは明らかで「白猫と聞いて、白い色をした猫を思い浮かべて探していたから」だ。例2今度は算数・数学の話にもどす。私の知り合いで高校の理科系科目で物理か化学を選ぶことになったが、「物理と聞いたら、その言葉の響きだけでゲローって思ってね。やるなら化学って思った」と言う人がいた。つまり、まだ何も知らないにも関わらず「物理と言う言葉から連想されるイメージだけで判断した」ということ。例3私は以前曲率を理解出来なかった事があるのでその経験を話したい。「曲率という言葉には率と使われているのだから、この教科書に載っている式は円周率、比率、百分率などと一緒で比率で表せるものでなければいけない。だから曲率というのであれば、式は◯/全体、の様な式でなければならない。だからこの教科書に載ってる式はおかしいんじゃないか?」と考えた事があり、理解に苦しんだ覚えがある。つまり曲率と言う言葉から式を類推していた訳で、これでは数学を理解出来ないのは当然ではある。例3は動画の中で出て来た「定義を受け入れられない」状態かと思います。それも「言葉の感覚やイメージからこうのはずなんだけどな…」と類推するが、全く異なる事が出てくる段階で、理解不能と感じる。でも、これってもし「いろいろ考えた人がいたんだが、その式で得られる数字で1より大きい、1と同じ、1より小さいがわかると原点に落ちるのか、円を描くのか、原点から離れて行くのかが分かるから、きっとその数値に便利だな、と思って名前つけたんだろうね。その名前がたまたま曲率だっただけじゃない?」って言われたら、また理解の仕方が違っていたかも知れません。私個人としては、文系科目が得意な人が数理の理解で苦しむ人が見られますが、おそらく数学のキーワードに対する類推から「こうでなければならない」が現実には違っていて理解に苦しむのでは、と思います。もちろん数学でも語学力はものをいいますが、例えば正三角形といったら「三辺の長さが全て等しい三角形」です。ところが類推してしまう人だと「正しい三つの角の形だから正三角形って、三つの角が等しい三角形のことだね!?」となりバツをされて嫌になるのかとおもいます。もちろん調べていくと「三角形が正三角形であることと、三つの角の大きさが全て等しい、は同値である」という定理が分かるので、算数・数学の感覚の鋭い先生が小学校の時に丁寧に話をしないと「三つの角が等しい三角形は正三角形、で良いじゃん」となりかねないとは思います。実際に定理から「三つの角の等しい三角形は正三角形である」ことは中学2年で理解しますしね。自然言語的(会話等)では単語等類推しながら意味を理解する。だが数学では単語の定義を確認しながら、文節以上のまとまりでは類推やイメージ操作を交えながら理解して行く、ここが器用な人は語学力も強く数理にも明るくなるものと個人的には思います。
ゲストの先生、頭が良い方にありがちな感じな話し方で、質問に対して話が2,3手飛んで行ってしまってるように聞こえる
ありました、とだけ答えた子供がほとんどいないようでしたら、この子は、ある意味で、センスがあると思います。英語で質問なら、質問の後に、何故そう思ったのかを同時に聞くのにね。
最後のどうして言葉が伝わるのか?という問いは哲学ではウィトゲンシュタインの言語ゲームだし神経科学ではミラーニューロンで自我他我境界の面ではクオリアに近接する話題。茂木さんが離人症の話を間髪入れずに出されたのは流石と思いました。赤ちゃんの言語習得に見られるように、我々が共感、理解しあえるのは、アプリオリに遺伝子に組み込まれた性質だからか?とも思いますが、そうしたメカニズムの部分で解明が進んでくると、又違った見え方がする話題かもしれませんね。
主語がしょうりゃくできない言語は逆に少数派。英独仏、北欧2国とスイスの少数言語のみ、後の言語は、主語を省略するのが普通と、カナダ在住の日本語教育の方がおっしゃってました。
楽しいお話でした!「アメリカ東西海岸」「量と質」「情報とそのプロセス」「語感にまつわる意味感の差異と体験(音読など)による差異」の対立みたいな構図は学問分野だけでなく、スポーツ、芸術、伝統など全ての人間の活動で当てはまりそうですね。枝葉(現象や理論的な道筋)から物の本質に迫る立場と、核心(人間の本質とか心の中心の視点、本質)から捉える立場。うまい、その場に適切なものと理屈じゃないもの言葉が醸し出す現象(意思疎通できない違和感とか)と、言葉が出るに至る人間の心や身体の根源からの視点(周波数、アクセント、抑揚などを醸し出す人間のコミュニケーション機能)高度なものと基礎的なもの前者は、理論がきれいに見えるのでわかりやすく、人を説得しやすいし、後者は、チョムスキーとか、アインシュタインとか、多くの人には理解はできないけど心に響く。お互いがぶつかることで矛盾を解消していくように世界は動いている?笑「答えはない」と言えばそれまでだけど、答えを探すプロセスが「人間の活動」とも言えますからね。ChatGPTは、そういう意味で革命を起こしていますね。言葉は面白い!と思わされました。
23:47 誰も「ポインタとコップがいっしょだ」なんて言ってないですよ。個数としては1だと言っているだけですよ。もし「いや、ポインタの最小個数は絶対に2だ」とか言うなら、その心を教えてほしいですよ。
言葉は、自分が感がている事、伝えたい事を相手に伝える手段の一つだと考えています。外国語の勉強もこの点を重視して勉強しています。なので、書かれた文は、その意味が間違いなく、正確に伝わるかどうかを重視しています。なので文を書くときには極力誤解を避ける様に心がけています。他者が書かれた文が幾つか異なる解釈が可能な場合、その文は適切でないと考えます。まあその文の目的が相手を混乱させる、言いたい事を明確にするのを避ける、などの理由があるのなら別ですが。
「あります。もしその内容や理由などを書かせたいならそういう尋ね方をしていないのは国語力不足だと思います。」と答案した(大人からすると)嫌な子供でした。
50:30 レアなケースをピックアップして一般化する危険性があります。確率的にどうなのかまで踏み込んで議論しないと。
国語だけではない記述式にすると突拍子もない答えが出てくるから記述式はできるだけ少なくする採点も大変だし、基準作っても平気で外してくる。解答するには問題の意図を汲まないといけないけど、問題も解答者の頭を想像して外されない工夫が必要。
全部見る前に思った事です。最近の子は基本的に字面です考える。メールだラインだとか相手の顔(本物)を見ながら話す事が昔と比べて少ない故の事が大きいと思う。だから、言葉の裏や情景が頭に浮かばない。それに個別思考同じ事をしている様で一番影響が大きい遊びの中で協力してと言ってもゲーム上とかが中心で共感とか集団認知とかが減っている。とかく現代人はそう言う例が増えている。例へば皆で一斉に物凄く綺麗な夕陽を観た時に何か感じた事がと聞けば余程興味が無い、無機質な環境に育って無い限りは有りましたとだけの答えは無いと思います。言語だけ認知だけでなく行動や環境、心理でも個別や集団等、様々な要因が絡み合うものだと思います。あと、余談ですが誰々が言ってたが多いと聴く気が削がれます。ハイハイ、いろいろ知識がお有りでと言いたく成ります。文章じゃないから引用書きが出来ないのは解るが鼻につきます。
ダイレクトに「良いと思ったところを書いてください」ってすれば意図を汲む手間が省ける
発達の問題もありますが、英語の早期教育によって、子どもたちの言語の認識の仕方、脳の構造がちょっと変わってきてる事もあるかも?って最近思います。ありますか?/あります。 で、何がおかしい?って自然に思ってしまうのもわかります。英語だと、その後、で、どう思ったの?具体的に何?とか会話が続くんだろうけど、日本人って、相手の言いたい事察することこそ美徳とされてるから、それ以上聞くという文化がない、え?終わり?ってびっくりしちゃう、おかしいって思っちゃう。
青い猫の傘と聞いて、青い毛並みの猫が傘をさしてる絵が見えました。
「ありました。」の回答やけど、子供は、著者の説明で「いいな」と思ったところを書く設問なのは分かってるけど、設問が日本語として正しく無いから、回答は少し間違えただけでバツなのに設問が緩いのにむかついて「ありました。」って書いてるだけやと思うで。
日本語のピッチアクセントは次に来る単語や助詞で変化するから、外国人の日本語学習者泣かせですね。認知言語学で言語獲得は、本人と対象と第三者の三項関係で行われるというのがあるけれど、最後のほうで話していた、言葉にならない感覚を説明する話も合わせて考えると、新しい言語を作るのにもこの三項関係の成立が必要なんじゃないかと思った。対象の存在を共有できれば指示語にも置き換えられるし、色もクオリアの話をすれば経験的な約束で同じ色を見ていることになっているだけだし、対象をどこまで共有できるかが言語を作る鍵かなぁ。
「ユーミンが好きな人」は、「ユーミンを好きな人」と「ユーミンに好かれている人」と言えば誤解が生まれにくい。ソフトウェア開発では、設計書を記載する際に、どちらでも解釈可能な記述だと、後に問題となるリスクが高いので、注意している。
サイエンスの話はとても面白く良い番組で好きです。しかし、もうすこし一つの話題をじっくりと進行してもらえるといいなと思います。話がバラバラに飛びすぎて、わかってる人だけ同士の雑談が点々と飛んでおり、ゲストの深掘りに行く前に誰かが被せてしまってるのが非常にもったいなく感じました😢
「ありましたか。また、あるとしたらどんなことですか。」と質問したら求める答えを書いてもらいやすかったと思います。だから、問題文が良くないかも。
同感です。回答は何も悪くないのに相手を責めるなんてひどすぎます。よく言われる「質問力」ですよね。
日本は欧米に比べて質問する側よりも質問を受ける側のほうを責める文化が強いです。欧米が正しいとは言いませんが、もう少し質問する側も責任を持って/負って、わかりやすい質問というか、自分が欲しい回答が来る質問を考えて話すべきと思います。
その時はなかったです
って答えたら良いな
@@kusu- 空気が読めないのは悪いという文化なんでしょうね。そこはそれってわかるでしょ?っていう暗黙の了解を分かれっていう。
@@maron5812 「空気が読めないのは悪い」のもそのとおりですが、さらに「わからないところがあったら聞き手が能動的に聞くべき」という文化が日本は強いと思います。これはふつうによく上司が言うことなので「思う」ではなくほぼ事実と思います。それに対して欧米は「聞き手がわかっていなさそうかは話し手がケアしなければならず、能動的に聞き手に対して確認すべき」です。
「日本は欧米に比べて質問する側よりも質問を受ける側のほうを責める文化が強いです」をもう少し具体的に言うと、上記のようになります。
繰り返しますが、欧米が正しいとは言っていません。差があるという話をしているだけです☝
分かる。会話なら「ありました。〇〇な点が〜」と話続けるのがコミュニケーションとして適してるだろうけど、質問の回答として記述するのであれば、「ありました」が正しいと思う。
「ありましたか?」「ありました。」はダメな回答ではなくダメな質問だとしか思えない
自分の国語力の無さを棚に上げて相手の理解力のせいにしてるだけじゃないの?
日常会話で聞いてるならまだしも
テスト形式で聞いてる場面で個人の有る無し「感覚」を聞く筈がない、
というのが推測、理解出来ないのは
強めのコミュ障、発達障害ワールドにしか思えないけどなぁ
ワザと欠落した質問をすることには意味があるかもしれないよ。法律的な文章を正確に解釈するための能力に、文章の作り手の意図を正確に推測する能力が必須なんだってさ。例えば「筆者の考えを述べよ」というよくある質問は、そういう能力をテストしているという事らしい
@teco6964 「ありました。」の後に「どんな点がいいなと思ったか」を書いても個人の感覚であることに変わりはないのでは?
「(君が良かったと個人的に思う点が)あったか否か」を聞くはずがない、
ということ。
その後の「どこが良かったと思うか」の個人的感想や推理の回答については禁じてなどはいない。
ただテストなので正誤はあるから例題の筆者などの心理を推理する必要がある。
そんな時に 「あったか否か」で「あった」という回答は
さんまのカラクリTVのじーちゃんのボケ回答だよ。
同意する。小中学校のとき、国語だけじゃなく、理科の2分野なんかもよくあった。模範解答を見ると、その問いだけで、その解答には到達できない。それを解答させたいなら、質問を変えるべきと感じたことが何度もあった。
〜はありましたか?という設問は出題者の意図を文字で伝えてないからコミュニケーションとしてアウトだと思うけどな。意図を読み取って答えろというかなり横着な設問だろ。
質問の仕方が間違い。『ありましたか?』だけでなく、『それはなんですか?』『ない場合は、ない理由はなんですか 』だろう。
ビジネスの世界だと、文脈を読み取って余計な説明するより、まず聞かれたことに答えろよってシーンも意外と多いと思いました。
それは多くの人が誤解している話だね。
それこそ文脈と意図、求められている抽象度(情報の粒度)をきちんと理解せずに「聞かれたことだけに答える」なんて話を真に受けたらハマるw
@@OrangeCamus上手い!
ほんとその通り。私はアメリカで20年間社会人やってますが、英語圏では、Yes/Noの質問をされて、文頭でYes/Noを言わずに先に言い訳や理屈ばかりダラダラ話し始めると、理屈はいいからさっさとYesかNoを答えろと怒られます。
@@Yasco-de-Jp そりゃ、ハイかイイエで答えるような質問されて余計な話を文頭に付け足せば英語圏関係なく怒られるか「あ、ダメだコイツ」って思われて当然だよ。状況や文意どころか言葉を理解してないじゃん。
ビジネスシーンだとローコンテクストの方が合理的
設問も主語と目的語を明確にするべきですね
子供の頃「ありましたか?」と聞かれたテストなかったよ。
問題が変だよ。
質問が不十分だね。
国語が苦手な茂木を笑うな
「ありました」の回答は絶対正解ですよね。こんな風に、大人の質問が悪いのに子どものせいにしないでほしいです。
わたしはコーチ=質問のプロですが、まさにお弟子さんには
「『〜はありましたか?』というクローズドクエスチョンをすると『(はい)ありました/(いいえ)ありませんでした』という返答が返ってきて会話が広がらない。
なので、『〜はなんでしたか?』とオープンクエスチョンにしなさい」
と教えています。
この問題文がクローズドクエスチョンだから悪いんです。
「〜いいなと思ったところはなんですか?どこをどういいなと思ったのか、具体的に書いてください。」
と質問しないとわからないです。
国語教師です。「筆者の考えで『よかった』と思ったところはありましたか」は、出題方法が悪いのです。先生が聞きたいことが何なのか、明確にとらえられる出題文をかくのが、一般的です。これなら私でも「ありました」と答えたくなります。
ただしこれは、日本の文化が影響していると思います。言葉に出さなくても伝わるだろう? 空気読んで。こういう文化に身を置いていると、こういう質問もするし、何なら友人同士の会話であれば、この出題方法と同じ論理で進んでいきます。
昔、シナリオライターになる学校に行ったときの授業で、「出かけるの?」と妻が効いたら、夫に「うん」と答えさせるのではなく「靴を買いにいくんだ、渋谷にな」と答えさせて、一度で情報をできるだけ伝えるようにしなければ、フィルムも時間も無駄。見ている人も一問一答形式の会話は耐えられない。と教わりました。
相手が聞きたいことが何なのか、空気で読めていた時代は、「筆者・・・ありましたか」でよかったと思いますが、空気を読まない人が多い(空気を読むという言葉が出てきたこと自体、読まない読めない人がいるという前提です)今は、この出題文では問題を成立させるのは難しいと思います。
@@ノア-s3c 自分は、父親が英語教師で、先に英語のフォーマットを教えこまれたのですが、今は、英語を学びはじめる年齢も下がってきていて、日本語の行間を読んだり、空気を読んだりするのが、それ自体、わかんなくなってくるのかもしれないです。
デジタル化が進んだことで空気を読まずそのまま受け取る必要が多くなったからかもしれません。プログラムを書くと日本語のはい、いいえもややこしくなります。英語なら絶対的なので悩まないのかなぁと思ったりします
詩に関するテストで「作者は何を言いたいのでしょうか」というものが小学生のときあった。点が欲しいので模範解答を書いたが、『言いたいことが確定してるなら詩である必要はない』と思っていた。
問いが良くない。「良かったところはありますか? またある場合は、どのような点が良かったのでしょうか?」という聞き方であるべき。
あるかないかで訊いているのだから、ある/ないで回答するのが先で、正解。
「ありましたか?」で「ありました。」と返答するのは、コミュニケーションとして変ではあるけどテストでこれを不正解とするのは間違いだと思う。同期コミュニケーションでは相手の真意を推し量ることが最優先になる場合が多いけど、テストは論理的整合性が前提となっていなければ点数のつけようがなくそちらの優先度が上がる。だから「何が〇〇でしたか?」と問うべきだったと考えます。
ありました。で満点やろ。
むしろこういう回答の仕方を教えて欲しかった。
問いに対する的確な解答なので、満点ですね。むしろそういった解答が来ることを予測できなかった教師側の国語力が低いと思います。
俺そもそも「〇〇はありましたか?」なんて問題見たことないわ
会社員の世界ではこれが常識ですよね。問いに対しYES.NOの回答をまずするのは面接でも、上司への回答でも。
ですよね。🎉
サムネの聞き方は、はい or いいえ の質問の仕方です。
問題作者が質問の仕方をわかっていないのが原因です。
子供のせいにするの絶対に許せない。
多分、ありましたか?の後に、どういうところでそのように感じましたか? とか理由を聞く質問を付け加えるよね普通は!!
1:20:36 「なんで英語はむずむずしちゃうのか」っていうのは日本人の言い分で、向こうからすれば「なんで日本語は省略しまくっちゃうのかな、むずむずするでしょ」って話ですよね😄
すごーく面白かったです
広瀬先生、一切エゴとかご自身の自己アピールっぽさが微塵も見えなくて
とにかく気になること 不思議に思うことを純粋に学問として探求されていて
心の底から楽しんで没頭されているのがとっても素敵でした
そしてとても面白かった
私自身 国語の試験は苦痛で仕方がなく、今中学生の息子も同じくで、どう割り切って社会の枠に馴染もうと折れるか、を考えるところなので
子供の返答はそのまま受け止めようというお話は納得出来来ました
3:58
読解対象の文章の趣旨を問うのが国語の問題なはずなのに、受験者側が出題文の趣旨まで考えなければいけないテストが悪いと思う。
レゴブロック2つを組み合わせると1つになるのに、なんで1+1=1じゃないんだろうって悩んだこと思い出しました。
それは数学で定義されてるから1+1=2です
定義って約束事みたいなもんですから、その約束事の中での話をはみ出すと、根本的な理由にはならないんですよ。
その1とその1は従属関係に有るので、確率論で数式化すれば「1×1=1」が正解✨
@@miracle-mint それだと2×2=2=1になっちゃいますけど。。。
なんか、それぞれ三人ともが、自分から無理に話を広げようとして、話がとっ散らかって、聞くに耐えなかった。せっかくすごい専門家が来てくれたのに、一緒に話を進める方の人選が残念でなりません。ハセンさんとか話を最後まで聞いてくれて、話の方向をうまくモデレートしてくれる人がよかったです。
小学生の時、国語テストの「この時の登場人物の気持ちを考えなさい」みたいな設問に対して、「考えました。」とふざけて回答した友達がいたのを思い出した。
勉強が得意な友達だったから、当時は頭がいいと考えることが違うなと素直に感心した。
私なら「はい!」と答え、先生に「考えた気持ちを文書に書きなさい!」迄言わせる!
それどこの俺よ笑
YES/NOを聞いている質問にYES/NOで答えたら何がダメなんだ...。会話では具体的な内容も触れる方が自然かなと思うけど、学校のテストや受験のルールだと聞かれたことに端的に答えてそれ以外は答えないのが普通じゃなかったっけ?
日常会話でも、Yes/Noの質問に答えるのに、
YesなのかNoなのかを最後まで言わずに
答えに至る過程を延々物語調に語る人がいる。
反論されにくい下地を固めてから答えたいんだろうなあ
とは思うのだけれど、正直心底イライラする。
答え言えよ!と。
ゲストの先生の話をしっかり聞きたいです。ホストがコロコロ話を変えてしまうので、ゲストの先生の話がしっかりと聞けません。せっかく良い番組なのにもったいないです。
私も同じ事を書こうと思ったら他の方がおっしゃってくれましたので短く書きます。
ゲストの話の途中で茂木さんが声高に自分の話を差し込んでくるので、聞き苦しくなり、途中で諦めました。可能なら別の方に変えてください。
@@tosyusaiさん。同意です。可能じゃなくても変えて欲しい。
私も「ありました」と書くタイプです。高校生の時は国語の偏差値は常に72以上でした。国語なのに論理的な設問を作れないダメ教師には、全員がyes or noで回答して設問の悪さに気付かせてあげるのが優しさです。忖度は対象の育成を妨げます。
国語の問題だと、一応プロである教師の問題作成に問題があるのかも知れないけど、一般社会は忖度や省略だらけ。そういう意味ではこれも社会学習と言える。日常会話でそこまで厳密に論理的に言葉を使うことはないし、「何かあった?」と問われた場合、あったかなかったかより何かしらの話題・内容を相手は知りたがってることが多い。論理性より重視される会話力。文意を裏読み深読みせず文章通りに受け止めてしまうのは真面目な子や発達障害の特徴だけれど、じゃあそれでいいのかと言えばそれも良くないと思う。(「ありました」と書く)私を分かってよ、と相手に求める以上は、私も相手を分かってあげなくてはいけなくて、先生の設問のミスなのかも知れないけど、そこを理解して察して対応してあげるのも優しさ。全員がそこを理解した上で無視してイエスかノーで答えるのだとしたらそれはそれで怖すぎだしイジメにも感じる。先生もまた完璧ではなくともすれば発達障害かも知れないのだし。人を責め咎めるとき、その矛先は自分にも向いている。言語能力の低いもの同士、発達同士で殴り合う虚しさ。
@@120cm5 一般社会の忖度や省略の話はここではしていないです。どの教科においても小中レベルの試験において複数の回答が出ないように設問を作成するのが教師の役目であり必要な能力です。論理的にまかり通る回答があった場合、それは教師側が非を認めて許容し正解にするべきです。大体小学生に忖度されないと成り立たない国語教師という時点で、社会に不要なレベルだと思うのですがいかがでしょうか。
@@120cm5
例えばこれで「Yes」とだけ答えた子の“国語力が足りない“のではなく“非言語コミュニケーション力が足りない“のですから、(国語)教科の成績に結びつけるのは違うと思います。
ふんわりした質問文が発達障害のスクリーニング→生徒の早期療育、と良い繋がりになるなら良いことですが、テストではなく成績と関係のないアンケート的なものであるほうが適切ではないでしょうか。
国語は論理力だけを測ってるんじゃない、認知力もその計測対象。教授はあくまで「誤用論と無下にすべきではない」と言っているのであって決してyesnoで答えるのが正しいと言っているわけではない。決してダメ教師でも忖度でもない、曖昧さを含めることで適切な範囲まで認知を拡張する能力を試している。お前はバグみたいな攻略法で"異常な"国語の点数を出してるだけで実は国語力無いことを自覚したほうがいい。
@@120cm5
国語のテストは日常会話とは違う。
その違いすらわからない大人が国語の先生をやってるのが恐ろしい。
しかもこんな設問をする先生に対して、周りが優しくしろとか、呆れて物も言えない。
論理的には、「筆者の考えで『良かった』と思った事はありますか?」では、寧ろ「ありました」か「ありません」が正解で、何が良かったかで書くのは間違い。書かせたいなら「筆者の考えで良かった点を書いて」にしないと。
問題の作り方が悪いだけ。ありましたか?に対してありました。は正解。問題を「ありましたか?ある場合はそのわけを書いてください」とするのが正しいです。
広瀬先生のお話を深めるのが進行役の仕事だと思いますが、茂木が先生に対抗するかの如く知識を無意味にひけらかして過去の偉人の言葉や学問上の用語によって短絡的にまとめてしまったりするので、邪魔にしかなっていない。
進行役は、相手の知的レベルまで達していて尚且つ、それに光を当てて十分に引き出す力量と器量が要求される。茂木の浅はかな人間性では、広瀬先生の持つ海のような広く深遠な知性を余すところなく聞き手に伝えるのは到底無理だと思った。
とても同感です。いかに自分が知識をもっているのかを見せつける役は必要ないと感じます。
茂木さんの受け答えには、学問の間口を広げて特定の知識のない一般の人にも広瀬さんの話を理解してほしいという思いを感じました。オタクはオタクの仲間内だけで面白がっていればいいよ。
もう一度言いますね?広瀬さんの話を深めたら異次元に突入してきっと誰もついて行けなくなります。引き出しの多さで言ったら茂木先生の右に出る人はそうそういません。私は茂木先生は適役だと思います。
ほぼ半世紀前の友人の話。「次の漢字をよみましょう」という小1の国語の問題に「うちの子は、ちゃんと小さい声で読んだと言うのよね。問題がおかしいよね〜」という話に、激しく同意した記憶。
低学年の子供に、いまだに、こんな設問の仕方をしている教育者に、考えて欲しい問題です。
中学生になっても、大学入試でも、そういった誤解を招く悪問があります
なんとなく日本語を使っているとはいえ、日本語自体の曖昧さを踏まえて作成して欲しい。そんな雑な問いかけ、誤解されない丁寧さは子供の見本になりますよね。
一学校の定期テスト位では泣き寝入りするから
教師に緊張感がないのかなと思いました。
わかってもらえて当然と思っているのは怠慢かな┄
悪問とも言えるし、その曖昧さを読み解く文化的背景を内面化していくことで、いわゆる日本人が完成するので、バツをつけられるのもそうした社会化のプロセス途中ということなのかなとも思いますね。
うーん、このコメント自体がハイコンテクスト過ぎて俺にゃよくわからん。
ちゃんと小さい声で読んだというのが本当は声出しちゃいけなかったのか、それとも逆に大きな声を出さなければいけなかったのか。問題がおかしいとはどういう意味なのか。ぶっちゃけあなたみたいな人がいるからそういう問題が減らないんだと思うよ。
おっしゃるように、基本的にテストの問題文のようなものは解釈違いが起こらないに越した事はないので、精一杯配慮をしてます。
テスト問題を作る方も人間だから、曖昧な表現が残ってしまったり、そもそも生徒の年齢や能力によっては正確だけど難解な言い回しはかえって伝わりずらかったりする場合もあります。
今はそういった曖昧な表現は出来る限り排除したり、管理職複数人でチェックしています。それでもテストで数人の生徒が勘違いをしたり、伝わって無い場合もあったりして、次にはそういったことが減るように改善しています。
そして現在教員は不足しています。
@@Raeliana_Macmillanこれ、同意。このコメント自体が既に読み手の解釈が必要
サムネに興味を持ち見始めましたが、途中でサムネ見返しました。茂木さんが話始めると、あー、良いところでCM入ったみたいな感覚に。。
話 ➡ 話し
両方あるんよな。
指示したことについてやったかやってないか聞いてるのに、やってない言い訳を言い出す人。
いや、まず質問に答えてくれ。こっちはやってないならやってないで対策を考えたいだけやから。
ま、自分も言い訳言っちゃう人なんやけど。
「かくものある?」と聞かれたときにペンと紙のどっちが必要なのかわからないな、と考えたことがありました。これも多義性の一例だと思いました。
先生が「きつね」と「きりん」を関西弁で発声した以降、言葉が全体的に関西イントネーションが強まったのがおもしろいですね。私も関西人で同じ現象が起きます。何かしら脳が切り替わっている気がします
仰る通りですね!感じました!
話変わりますが、「赤トンボ」歌にすると全国各地で発音が変わりますね!みんな垢とぉんぶぉ~♪に、なります!
なりましたね。生まれも育ちも関東の私にもわかりました。広瀬さんの関西弁ネイティブの肩の力の抜けた会話を聞いてみたくなりました。
学生の頃発達心理学を学んでいたのでとても興味深かったです!
国語私も大の苦手でした。
求められる答えを書けない子でした。
確かに文章で書くときは、「青い猫の傘」とは書きませんね。「 猫の模様の青い傘」か、「青い猫の描かれた傘」か。曖昧さを排除しようとしますね。
ですね。飼い主が青い猫に傘を付けていても「青い猫の傘」ですから。
48:03 「太郎」と「花子」を混ぜて「たらこ」って言ったのは純粋な言い間違えだけど、子音と母音をぶった斬って「太郎」の前半分(tarouのtar)と「花子」の後ろ半分(hanakoのako)をニコイチして「たらこ(tarako)」ってなってるの面白いな
問題の問い掛け方がどちらとも取れるような表現のものも多いきがします。だから考えてないわけではなく、自分の意見を述べよと言われたらちゃんと書けるんですよね。
見方を変えれば出題の文章がどちらでも取れる。
なので「あります」でも正解、出題は「良いと思ったところを書きなさい」の様な
具体的指示をしないと!
一つ前の設問では「書きましょう。」なので、知ったことを書いている。
次の設問では「ありましたか。」なので、あったかなかったかを答えている。
五.設問は「〜と思ったところを書きましょう」とあえてしてないわけですから、この回答は正しくないどころか、四.設問との違い(関係性)を読み取った質問者に対する高度な配慮がなされた回答だと思います。
逆に、五.設問に該当箇所を書いてしまうと、「四.設問では書きましょうとしましたが、五.設問では書きましょうとはしてないですよね?」と問われてしまう可能性があります。
該当箇所を書いた子は、質問者の意図や要求を汲み取っているとも言えますが、設問の変化に気付けず惰性で進めてしまう傾向があるとも言えると思います。
この子は設問を正確に認識する能力が高いと思います。
小学校の算数や国語のプリントを見ていて、
質問の言葉、説明が足りてなく子供が理解出来ないこと
たっくさんあります。
質問の仕方がそもそも多くを語らず理解せよ。って感じで、パターンで覚えるしかない😢
そうやってちゃんと忖度できる日本人が出来上がるのてすよね。
自分は「ありました」って答えたい派ですね。
実際には質問の意図として、内容も答えてほしいというのがわかったので、
きちんと内容も答えてましたが、本当は「ありました」って答えたかった。
当時も今も、様式美とか、暗黙のルールかと思って従ってますね。
それなら見るなという点は置いていただけると大変ありがたいのですが、竹下さんだけで本当にいいです。竹下さんの鋭い質問だけでお願いしたい。。PIVOTに茂木さん多分いない方がいい。。
最後の竹下さんのコメントにあるように、広瀬さんの著作を読んでから、子どもの紡ぐ言葉が別の景色どころか、宝物に見えるようになると思います。ぶっ飛んでいて面白かったので、ぜひ今度は教育の研究者と広瀬先生の対談を聞きたいです。
ありましたか?ってなんちゅー質問の仕方。だから何?ってなる。総じて年配方の会議がこうゆうはっきりしない感じで進行するときあって、結局何がどう決まったかわからない。
質問文に問題があるに決まってます。
行間まで読まなければいけない文章は、大人になって大きな問題にぶち当たります。
文章全体や会話全体の文脈までを理解して応答するか、1文だけで答えるか、末尾のフレーズ、単語で答えるかといったあたりの話で、何を求められているか理解したり踏み込んだりってことができないか、ちょっとヒネちゃってて、別にっ。って感じでひねくれて答えていたら、違うでしょって教えてあげるのが理性をもった大人の対応かなぁって感じました。幼い対応を面白いって取るか、幼い行動と冷静に受け止めて指導してあげるか、大人側の受け止め方や、受け止めて正常に対応する能力が下がっているという問題があるのではないだろうか。などなど、大人側の捉え方の問題もいろいろと考えさせられますね。
ただ、昔の問題はありましたか?ではなくて、感じたことを述べなさい。と明確に問うていたのでは?
ここで感じるのは、言語の理解、正確な表現力が下がっているのは子供の方じゃなくて、大人の能力が下がっていて、子供が本能的に疑問を持つことでおおしろい答えが返ってきていると感じるのでは?という見方もあるかと。
もしかすると国語の指導要綱に 忖度させる というのも入ってるのではないかな。
それならそうと 忖度しましょう! って生徒にちゃんと指導してもらいたいですね。
素直な答えだと思いました。微妙な設問にも察してあげるのを続けてたら過剰適応で参っちゃう。大人なら、設問下手でごめんね違うことが聞きたかったんだよって、反省して欲しいです。大人がそういう態度をしたら、子供はそこからたくさん学ぶと思う。
会話ならともかくテストならば裏を読ませるような風に書くのが悪い。100人に聞いて全員が質問の意味をわかるように書くべき。この書き方をした人は先生失格だな。
運転免許の学科試験とかにも言える話だけど
@@りゅうせん-b5x
運転は論理だけでなく、安全のためには忖度や思いやりやおせっかいが重要だからでしょうね。
ひょっとして、国語の学習指導要領に 忖度できる人間に洗脳すること が含まれているかもしれませんね。
怖〜w
1:26:45 この感覚は私が感じたとも似てるかもしれないと思いました。
小学生くらいの時期のみでしたが、
現実に誰かと話してる速度と自分の頭が切り離された感覚。
ヤバいまた来た!もっと早く話さないと、
という変な感覚と焦りだけが脳に取り残されるけど、
現実の自分は冷静に話してる。そしていつの間にか統合されて直る。
似た人がいると知りドキッとしました。変な話だから誰にも言えなかった。
「あおいねこのかさ」は 「青い色をした猫 が 傘を持っている姿」 しか浮かんできませんでした
(ファンタジーの世界のような)
ちなみに群馬県出身ですが「いちご」は単体だと「みかん」のようなイントネーションになり、
「いちご狩り」になると「りんご狩り」のように平坦になります
あおいね、この傘
かと思っちゃった
ねこ、だったのね
いちごは越後と一緒。
軽井沢はいちご狩りと一緒だいねw
NHK日本語発音アクセント辞典では、厨房は「ちゅうぼう ̄」だけですけど、中央は「ちゅう\おう」と「ちゅうおう ̄」の両方乗ってますね。
@@美加萱沼 さん
仲間!笑
わたしもまんま同じように
思いました!!
国語苦手だったけど本読みまくった成果なのか、得意だった人より分かるようになってて、不思議だなぁって😊
ニュアンスも大事てすし、ことばの明確さも大事。臨機応変に真実を見極めて❣️✨
そもそも問題を出す方の国語力を問いたい。
こうやって質問されたら、「ありました」だけじゃなくて、内容を聞かれてると解釈する人が高得点を貰えるんでしょうけど、実際社会に出て、仕事となると、「余計な説明とか理由なんて良いから!YESかNOか、聞かれたことだけ答えて!」ってよく叱られるんですよね。
質問してくる相手見て答え方考えなきゃいけないんだよね。面倒くさいね
1:26:00 数秒間、目の前の現実世界が遠退き隔絶感を感じる、あるいは、並行世界に転移した感があるってやつですかね。「並行世界滑り感覚」とでも呼ぶのが良いんじゃないかなと。
教育上の国語の問題としてこの解答を間違いとしてはいけないだろ。
一方で、日常生活であれ仕事上であれ、コミュニケーション能力としては相手の発言の意図を汲んで回答する必要もある。
茂木さん、ポジションばかり気にしてて、話がまるで進まない。MCはほんと向いてないよね。
茂木さんがいないと、番組が成立しないのではないかなあ。
司会者と学者だけの番組だと、私のような素人でカジュアルに科学を知りたい層は、番組を見ようと思わない。
茂木さん、グッジョブだと思う。
@@tgmdt85220 茂木さん、話が本人が聞きたいことを思いついたまま聞いてる?
知ってることを言いまくってる?
全体の流れをあまり考えられて構成できてない気がします。
関西では、『茶色の~』のニュアンスでも色々あって、それぞれ意味合いが変わってくるからね。
全部低音ならその後にくる名詞を伝える含意があって、『の』に高いアクセントがあると、『茶色』という色を伝える含意になる。
それは関東でも一緒じゃないかな
欲を言えばもっと言語学の話だけを聞きたかった。茂木さんは学歴厨なので(笑)すぐ学歴の話になっちゃうけど、PIVOTの方向性は、無駄を省いて究極的に濃いコンテンツにすることだと思うので、言語学の話にフォーカスすれば神回になったと思う。広瀬さんから現実社会からの離脱の話を引き出したのは竹下さんだった。さすが竹下さん。これってルイスキャロルとかジョンレノンも経験してるんです。言語化できないことは作品で残すしかないんでしょうね。
同感
話を脱線させてるように感じました。
これは「ありました」が正解。国語の問題なので、問題文を読解できてるかの判断が重要であり、問題で聞かれてなことを「理由を聞いてる」と勝手に判断して解答するのは明らかに誤り。
これがわからない人も増えてきたのかね。
とても興味深いお話でした。先生の本も買って読んでみようと思います。
「この言い方はミスリードしているだろうな」な場面を見るのが好きなのですが、時間が経つと具体的に何のことだったか忘れてしまってもどかしくなることがあります。
以前ITに詳しい人に「英語と比較して日本語で致命的に欠落しているのは主語よりも目的語」という話を聞いて妙に納得した記憶があります。日本のシステム開発の要件定義でおかしなことになるのは、この辺りが影響しているのかもしれません。
メール等で誤解のない論理的な説明をすることはとても難しいです。口語ではありえない“括弧”でまとめたり、口語と同様にスペースを開けたり、複数の文にラベルを付けてプロック化したものを主語や目的語に使ったりていうことが必要になります。(英語でも同じかな?)
22:50~の分数の話で0にしてしまうというのは多分"消す"、"消える"という表現が"0にする"に直結してるのかな
実際に計算させてみて挙動を認識させりゃ理解も進みそう。何故省略してるのか、出来るのかの部分の理解が不足している風に感じた
前に深夜の某TV番組で、出題された文章の著者と一緒にセンター試験の問題(物語)を解いてみよう!って企画をやっていたのを思い出しました。著者は何問か間違えていて、問題解説役の高校教師に、「広辞苑ではこの意味が載っているからこの選択肢はおかしい」みたいな理詰めのお叱りを受けて納得していました。広辞苑はその時代にメジャーに用いられる語法をまとめた虎の巻に過ぎないのに、その広辞苑を根拠に著者の考えを否定することに、ほんの少し違和感を覚えました。
日本語で「〇〇ありましたか。」の質問に「ないです。」の答えは、耳の聞こえにくい子供や自閉症スペクトラムのタイプに傾向あるそうです。
子供を相手にする問題を作ってるのにこの聞き方をする先生の頭があんまり良くないと思う。
求められる答えは質問で変わるのですよね。
昔からよく音声入力を使ってるんだけど、昔は単語と意味と文法的な事から推測していて間違える時は何度も繰り返す感じだったけど、最近のはイントネーションを少し変えると出力結果が変わるから、そのあたりの情報も考慮し始めたんだろうなぁ
寧ろ考慮しないで自然に任せたら精度上がった
もし、僕が質問をするならば「筆者の考えで「よかった」とあなたが考えたところはありましたか?あった場合は問①文中の「どこから」そう考えたか?問②、①の個所からあなたが「どう考えた」か?その考えについて述べてください。なかった場合は問③なぜあなたはそう考えなかったのか述べてください。というまどろっこしい質問になっちゃうかも、、、、
41:56「青い猫」の傘も、猫の絵の描かれた傘だけでなく、「青い猫」が所有している傘とも解釈できる。
言語が文化の大部分を担っているので、言語を上手く扱えない人と扱える人で格差が生まれているのもこの言語理解に深く関わっているんだなぁと思いました。すごく面白いお話を聞けて良かったです。
「ありましたか?」って聞かれたら、「ありました」って書くでしょ。ちゃんと問いかけに「書きなさい」って書くべきだと思うけど。察してちゃんかよ!!って思います。
日本ってハイコンテクスト文化だというけど、あまりに空気ヨメ、を貫かれると、人の意図を理解するために余計なことまで神経を使わなくちゃいけなくて疲れる。日本語はあいまいな表現が多くて、だから、政治でもなんでも、あいまいに物事を政治家に都合のようにに済ませれるようになっていると思し、もう少し論理的に相手に確実に伝えたいことが伝わる文章の書き方や話し方を教えないと、問題意識をもって物事を解決する思考も育たないと思います。
結構いい加減な教育現場で苦労して、社会に出て法制執務で条文を読むと安心することもある感じ。
こういう文化もあって発達障害グレーゾーンの人もかなり生き辛いんだと思うわ。意図することはストレートに表現しないとコミュニケーション出来ないと思うな。他の文化圏でも相手に気を使って婉曲表現したりもするけど、日本は世界的に見て度を越してると思うわ。既に社会が複雑化して、近場の人としか交流しないような村社会じゃ無いんだから教育から変えるべき。
はっとさせられるところが多く、とても面白かったです。言葉の曖昧性、表裏、抑揚、いろんな視点を感じることができました。
「ありました。」「ありませんでした。」以外の答えを書いたら質問文で問うてないことを答えたのだから×にするのが国語教育としては正しい。そのつもりで問題文を書いたのでないのなら、サムネの見出しは【国語が苦手な子ども】ではなく【国語が苦手な国語教師】とすべきだと思う。質問したいことを端的に問う問題文を書けないのだから。
LLM台頭のおかげで言語学が盛り上がってて嬉しい。Attention is all you need的な。
脳科学と結びついて、アブダクション推論とか、認知・思考・知性そのものに切り込んでいく最近の言語学はアツい。
たんに質問が悪いのでは?
ありましたか?と聞かれたらあるかないかで答えるでしょ
「いいな」と思ったところとその理由を答えてくださいと聞かれたら「ありました」とは答えないと思う
22:39 定理→定義の誤字(聞き間違い)です。
分数の定義は、本当は数学的には整数の対に同値類を入れなくては厳密に定義できないものです。
(有理数)
小学生では(指導要領に沿って)それを噛み砕いているに過ぎません。
そういう意味で、このような必要な議論は教育学的にも意義を持っています。
(かく言う自分も塾で分数を教え初めて真剣に考えました。)
蛇足ですが、自然数では1か0を(集合論的に)前提としています。次に1を5860回足すと5860になります。足し算は集合論的に保証されます。(ブルバキを参照)
子どもの疑問は真剣に解決されるべきものなのです。徒然草最終段もそれを我々に教えています。
質問に欠点があるだろう。
「有ればその理由を、無ければ無いでその理由を書きなさい」が正しい質問の仕方。
あ、うんの呼吸でこちらが求める答えを書いてくれると思うのは、それこそ大人の傲慢さだと思うが!私はこの子の答えは普通だと思うぞ!
おもしろかったです!言葉って本当に深いんですね。実は普段意識せずにすごく高度な情報処理をしているのかもしれないけれど、言葉というものが身近過ぎて、当たり前すぎて逆に気がつかない。今言葉について考えているこの思考自体も、(考えている対象になっている)言葉によってなされているという...迷宮...
めさくさ楽しくて、脳汁がドバドバでました。
また、この3人の話を聞きたいです。
私も大学1年の頃にクオリアを体験しているので、その話が出てきてびっくりしました。
自分だけじゃなかったんですね。
体験ってどういう事ですか?
周囲の出来事や人々、自分自身に対して現実感がなくなり、夢の中にいるような奇妙な感じに襲われる状態を体験しました。
分数の話で、分母と分子が同じ数の時、例えば「5分の5」の時に、子どもが「0分の0」にしてしまうのは、たぶん、「分母と分子が約分されて消える」の「消える」のところを「消える=無になる=0になる」と考えたからでしょう。
小学生は四則演算を加→減→乗→除の順番で学ぶので、「足し算をキャンセルしたければ引き算しろ、さすれば消えてゼロになる」という刷り込みが入っていることでしょう。この「刷り込み=ルール」を分数に適用すると「5分の5」は「0分の0」です。
正しく教えるには、「消える、と言っても実は2種類ある。足し算を引き算でキャンセルしたら0になって消え、掛け算を割り算でキャンセルしたら1になって消えるのだ。1がなぜ消えるかって? 分母の1は省略されるからだよ。逆に言うと、全ての整数はその分母に1を隠し持っているんだよ(=有理数)。」となります。
面白い話でした。
幼少期から疑問だった事は言語学についてまだ未熟だったんだと痛感すると同時にそんな考えて会話できないよって絶望も感じました。
しかし、言語って深い、深すぎる。
定義が受け入れられないって、名言だな。
今の国会のやり取りでよくわかるイエスかノーかで答えてくださいってよく言うよね本当は、答える方はそこに至った理由を言いたいだろうに、ごまかしみたいに受け止められるのもお互いの考えの違いやからな。どんな答えを欲しいかを明確に問う方も考えないと。
最高におもしろい回でした!ありがとうございます😭
非常に面白く、新しい興味が生まれました。
これが、目から鱗って言うんでしょうね。
これを聴いて、でだから何?なんの役にたつのって感想も何故そう思うのか、研究対象になりそう。
言葉と言語の違いは、少しだけわかった気がします。
算数・英語(言語)・イメージを論じていて大変に興味深い。私個人としては、会話等の日常の言語使用の場面では「言葉の感じから類推しながら話を理解してゆく」事が行われているのでは無いか、と思います。それに対して同じように数学等の理系の事を理解しようとすた時に「単語の感覚、言葉のイメージから類推してしまう人もいる」のだと思います。そうした人にとっては定義をいくら説明しても「なんで、その定義になるの?意味がわからない」となります。例を挙げます。
例1
飼い主は自分のペットに「白猫」と名前を付けている。そして昨日友達になったひとに「私の白猫ここに連れて来てもらって良い?」と言われて探したが何処を探しても見当たらない。「早くしてー」と言われてたので「貴方のペットの白猫、何処にもいないよ!?どこ?」と聞いたら「いるじゃん。そこにいる黒い色の犬のことだよ。その子名前、白猫って言うんだ」と言われたとする。何故見つけられなかったのかは明らかで「白猫と聞いて、白い色をした猫を思い浮かべて探していたから」だ。
例2
今度は算数・数学の話にもどす。私の知り合いで高校の理科系科目で物理か化学を選ぶことになったが、「物理と聞いたら、その言葉の響きだけでゲローって思ってね。やるなら化学って思った」と言う人がいた。つまり、まだ何も知らないにも関わらず「物理と言う言葉から連想されるイメージだけで判断した」ということ。
例3
私は以前曲率を理解出来なかった事があるのでその経験を話したい。「曲率という言葉には率と使われているのだから、この教科書に載っている式は円周率、比率、百分率などと一緒で比率で表せるものでなければいけない。だから曲率というのであれば、式は◯/全体、の様な式でなければならない。だからこの教科書に載ってる式はおかしいんじゃないか?」と考えた事があり、理解に苦しんだ覚えがある。つまり曲率と言う言葉から式を類推していた訳で、これでは数学を理解出来ないのは当然ではある。
例3は動画の中で出て来た「定義を受け入れられない」状態かと思います。それも「言葉の感覚やイメージからこうのはずなんだけどな…」と類推するが、全く異なる事が出てくる段階で、理解不能と感じる。でも、これってもし「いろいろ考えた人がいたんだが、その式で得られる数字で1より大きい、1と同じ、1より小さいがわかると原点に落ちるのか、円を描くのか、原点から離れて行くのかが分かるから、きっとその数値に便利だな、と思って名前つけたんだろうね。その名前がたまたま曲率だっただけじゃない?」って言われたら、また理解の仕方が違っていたかも知れません。
私個人としては、文系科目が得意な人が数理の理解で苦しむ人が見られますが、おそらく数学のキーワードに対する類推から「こうでなければならない」が現実には違っていて理解に苦しむのでは、と思います。もちろん数学でも語学力はものをいいますが、例えば正三角形といったら「三辺の長さが全て等しい三角形」です。ところが類推してしまう人だと「正しい三つの角の形だから正三角形って、三つの角が等しい三角形のことだね!?」となりバツをされて嫌になるのかとおもいます。もちろん調べていくと「三角形が正三角形であることと、三つの角の大きさが全て等しい、は同値である」という定理が分かるので、算数・数学の感覚の鋭い先生が小学校の時に丁寧に話をしないと「三つの角が等しい三角形は正三角形、で良いじゃん」となりかねないとは思います。実際に定理から「三つの角の等しい三角形は正三角形である」ことは中学2年で理解しますしね。
自然言語的(会話等)では単語等類推しながら意味を理解する。だが数学では単語の定義を確認しながら、文節以上のまとまりでは類推やイメージ操作を交えながら理解して行く、ここが器用な人は語学力も強く数理にも明るくなるものと個人的には思います。
ゲストの先生、頭が良い方にありがちな感じな話し方で、質問に対して話が2,3手飛んで行ってしまってるように聞こえる
ありました、とだけ答えた子供がほとんどいないようでしたら、この子は、ある意味で、センスがあると思います。英語で質問なら、質問の後に、何故そう思ったのかを同時に聞くのにね。
最後のどうして言葉が伝わるのか?という問いは
哲学ではウィトゲンシュタインの言語ゲームだし
神経科学ではミラーニューロンで
自我他我境界の面ではクオリアに近接する話題。
茂木さんが離人症の話を間髪入れずに出されたのは流石と思いました。
赤ちゃんの言語習得に見られるように、我々が共感、理解しあえるのは、
アプリオリに遺伝子に組み込まれた性質だからか?とも思いますが、
そうしたメカニズムの部分で解明が進んでくると、又違った見え方がする話題かもしれませんね。
主語がしょうりゃくできない言語は逆に少数派。英独仏、北欧2国とスイスの少数言語のみ、後の言語は、主語を省略するのが普通と、カナダ在住の日本語教育の方がおっしゃってました。
楽しいお話でした!
「アメリカ東西海岸」「量と質」「情報とそのプロセス」「語感にまつわる意味感の差異と体験(音読など)による差異」の対立みたいな構図は学問分野だけでなく、スポーツ、芸術、伝統など全ての人間の活動で当てはまりそうですね。
枝葉(現象や理論的な道筋)から物の本質に迫る立場と、
核心(人間の本質とか心の中心の視点、本質)から捉える立場。
うまい、その場に適切なものと
理屈じゃないもの
言葉が醸し出す現象(意思疎通できない違和感とか)と、
言葉が出るに至る人間の心や身体の根源からの視点
(周波数、アクセント、抑揚などを醸し出す人間のコミュニケーション機能)
高度なものと基礎的なもの
前者は、理論がきれいに見えるのでわかりやすく、人を説得しやすいし、
後者は、チョムスキーとか、アインシュタインとか、多くの人には理解はできないけど心に響く。
お互いがぶつかることで矛盾を解消していくように世界は動いている?笑
「答えはない」と言えばそれまでだけど、答えを探すプロセスが「人間の活動」とも言えますからね。
ChatGPTは、そういう意味で革命を起こしていますね。
言葉は面白い!
と思わされました。
23:47 誰も「ポインタとコップがいっしょだ」なんて言ってないですよ。個数としては1だと言っているだけですよ。もし「いや、ポインタの最小個数は絶対に2だ」とか言うなら、その心を教えてほしいですよ。
言葉は、自分が感がている事、伝えたい事を相手に伝える手段の一つだと考えています。外国語の勉強もこの点を重視して勉強しています。なので、書かれた文は、その意味が間違いなく、正確に伝わるかどうかを重視しています。なので文を書くときには極力誤解を避ける様に心がけています。他者が書かれた文が幾つか異なる解釈が可能な場合、その文は適切でないと考えます。まあその文の目的が相手を混乱させる、言いたい事を明確にするのを避ける、などの理由があるのなら別ですが。
「あります。もしその内容や理由などを書かせたいならそういう尋ね方をしていないのは国語力不足だと思います。」と答案した(大人からすると)嫌な子供でした。
50:30 レアなケースをピックアップして一般化する危険性があります。
確率的にどうなのかまで踏み込んで議論しないと。
国語だけではない
記述式にすると突拍子もない答えが出てくるから
記述式はできるだけ少なくする
採点も大変だし、基準作っても平気で外してくる。
解答するには問題の意図を汲まないといけないけど、問題も解答者の頭を想像して外されない工夫が必要。
全部見る前に思った事です。
最近の子は基本的に字面です考える。
メールだラインだとか相手の顔(本物)を見ながら話す事が昔と比べて少ない故の事が大きいと思う。
だから、言葉の裏や情景が頭に浮かばない。
それに個別思考同じ事をしている様で一番影響が大きい遊びの中で協力してと言ってもゲーム上とかが中心で共感とか集団認知とかが減っている。
とかく現代人はそう言う例が増えている。
例へば皆で一斉に物凄く綺麗な夕陽を観た時に何か感じた事がと聞けば余程興味が無い、無機質な環境に育って無い限りは有りましたとだけの答えは無いと思います。
言語だけ認知だけでなく行動や環境、心理でも個別や集団等、様々な要因が絡み合うものだと思います。
あと、余談ですが誰々が言ってたが多いと聴く気が削がれます。
ハイハイ、いろいろ知識がお有りでと言いたく成ります。
文章じゃないから引用書きが出来ないのは解るが鼻につきます。
ダイレクトに「良いと思ったところを書いてください」ってすれば意図を汲む手間が省ける
発達の問題もありますが、英語の早期教育によって、子どもたちの言語の認識の仕方、脳の構造がちょっと変わってきてる事もあるかも?って最近思います。
ありますか?/あります。 で、何がおかしい?って自然に思ってしまうのもわかります。
英語だと、その後、で、どう思ったの?具体的に何?とか会話が続くんだろうけど、日本人って、相手の言いたい事察することこそ美徳とされてるから、それ以上聞くという文化がない、え?終わり?ってびっくりしちゃう、おかしいって思っちゃう。
青い猫の傘と聞いて、青い毛並みの猫が傘をさしてる絵が見えました。
「ありました。」の回答やけど
、子供は、著者の説明で「いいな」と思ったところを書く設問なのは分かってるけど、設問が日本語として正しく無いから、回答は少し間違えただけでバツなのに設問が緩いのにむかついて「ありました。」って書いてるだけやと思うで。
日本語のピッチアクセントは次に来る単語や助詞で変化するから、外国人の日本語学習者泣かせですね。
認知言語学で言語獲得は、本人と対象と第三者の三項関係で行われるというのがあるけれど、最後のほうで話していた、言葉にならない感覚を説明する話も合わせて考えると、新しい言語を作るのにもこの三項関係の成立が必要なんじゃないかと思った。対象の存在を共有できれば指示語にも置き換えられるし、色もクオリアの話をすれば経験的な約束で同じ色を見ていることになっているだけだし、対象をどこまで共有できるかが言語を作る鍵かなぁ。
「ユーミンが好きな人」は、「ユーミンを好きな人」と「ユーミンに好かれている人」と言えば誤解が生まれにくい。
ソフトウェア開発では、設計書を記載する際に、どちらでも解釈可能な記述だと、後に問題となるリスクが高いので、注意している。
サイエンスの話はとても面白く良い番組で好きです。しかし、もうすこし一つの話題をじっくりと進行してもらえるといいなと思います。
話がバラバラに飛びすぎて、わかってる人だけ同士の雑談が点々と飛んでおり、ゲストの深掘りに行く前に誰かが被せてしまってるのが非常にもったいなく感じました😢