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青空楓と行く偉人探求〜歴史上の偉人と出会う〜
Япония
Добавлен 2 ноя 2024
歴史探求者の皆さん、こんにちは
ナビゲーターの青空 楓(あおぞら かえで)です。
名前は聞いたことがあるけど、あの人が何をした人なのか、
よく知らないというあなたにいろんなジャンルの偉人達を紹介します。
ナビゲーターの青空 楓(あおぞら かえで)です。
名前は聞いたことがあるけど、あの人が何をした人なのか、
よく知らないというあなたにいろんなジャンルの偉人達を紹介します。
徳川四天王「酒井忠次」〜最強の補佐役・家康の右腕〜
酒井忠次は三河国の名門・酒井家に生まれ、幼少期から武芸と学問を修め、後に徳川家康の忠実な家臣として活躍した。桶狭間の戦い後、家康の独立を支え、軍事・外交の両面で活躍。三河統一戦や武田氏との戦いで軍略を発揮し、家康の信頼を確立した。織田信長との同盟や本能寺の変後の伊賀越えでも家康を支えた。関東移封後は新領地の統治に尽力し、領国経営や人材登用にも貢献。晩年は指南役として影響を残し、徳川政権の基盤を築いた。
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最強の赤備え「井伊直政」〜徳川家康に抜擢された超エリート武将〜
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井伊直政は1560年に遠江国井伊谷で生まれた。井伊家はかつて栄えた名家だったが、今川氏の衰退とともに没落。直政は幼少期から武芸や戦術を学び、16歳で徳川家康に仕官した。軍事の才能を発揮し、特に武田軍の赤備えを継承・発展させた。長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ヶ原の戦いなどで活躍し、家康の信頼を得る。関ヶ原で負傷し1602年に死去するが、その遺志は彦根藩として受け継がれた。直政の軍事改革や赤備えの伝統は、徳川幕府の礎となった。
徳川四天王筆頭「本多忠勝」〜敵も味方も震えた戦国屈指の猛将の忠義と武勇〜
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本多忠勝は、徳川家康に仕えた戦国武将であり、「徳川四天王」の筆頭として知られる。三河の譜代家臣の家に生まれ、幼少期から武芸を磨いた。14歳で初陣を果たし、戦場での勇猛さと冷静な判断力で頭角を現した。特に、三方ヶ原の戦いでは家康の撤退を援護し、長篠の戦いでは「蜻蛉切」を振るい敵を撃退するなど、数々の武功を挙げた。関ヶ原の戦いでは東軍の前衛を務め、家康の天下統一を支えた。戦後は桑名藩主として藩政にも尽力し、武勇だけでなく政治手腕にも優れた名将として歴史に名を刻んでいる。
徳川を陰で支えた男「榊原康政」〜徳川四天王の一人・戦国最強の名参謀〜
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榊原康政は1552年、三河国に生まれ、幼少期から徳川家康に仕えました。武芸や戦略を学び、家康の側近として政務や軍事に関与し、若くして才能を認められました。三方ヶ原の戦いでの敗戦から教訓を得て、関ヶ原の戦いでは東軍の重要な将として活躍。戦術に優れ、限られた兵力で大きな戦果を挙げました。また、江戸幕府創設期には行政整備に貢献し、幕藩体制の基礎を築く役割を果たしました。軍事・政治の両面で活躍し、家康の信頼を得た名将として歴史に名を刻みました。
秀吉を支えた天才軍師「竹中半兵衛」〜戦わずして勝つ!情報戦の開拓者〜
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竹中半兵衛は、美濃国菩提山城で生まれ、幼少期から優れた知略を発揮しました。父・竹中重利のもとで政治や軍事を学び、特に情報収集や交渉術に長けていました。織田信長の台頭に伴い、彼の政策に共鳴し、最終的に木下藤吉郎(豊臣秀吉)に仕えます。半兵衛の戦略は「戦わずして勝つ」ことを重視し、情報戦や外交交渉を駆使しました。特に播磨平定では巧みな戦略を展開しましたが、病に倒れ36歳で死去。その知略は秀吉政権に継承され、日本の軍事史に大きな影響を与えました。
熊本の礎を築いた男「加藤清正」〜清正公信仰・今も熊本で愛される戦国武将〜
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加藤清正(1562-1611)は、豊臣秀吉に仕えた戦国武将であり、築城や領地経営に優れた才覚を発揮した。幼少期から秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いや朝鮮出兵でその武勇を示し、特に朝鮮出兵では驚異的な進軍速度と防衛戦の巧みさで名を馳せた。 築城の名手としても知られ、熊本城はその代表作である。清正独自の「武者返し」の石垣や防御設計は、実戦経験に基づいた画期的なものだった。また、肥後国の領主として治水事業や農地開発を推進し、民政においても公平な統治を行った。 関ヶ原の戦いでは徳川方につき、豊臣家と幕府の間で巧みに立ち回るも、1611年に病没。彼の築いた熊本の基盤と功績は、現代にまで息づいている。
戦国一のかぶき者「前田慶次」〜『義』と『美』を追求し、敵も味方も魅了した型破りな武将〜
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前田慶次は戦国時代の「かぶき者」として知られる自由奔放な武将です。前田利家の甥として生まれた彼は、豪華な衣装や奇抜な行動で名を馳せる一方、「義」と「美」を重んじた生き方で多くの人々に愛されました。戦場では奇抜な戦術や心理戦で活躍し、上杉家の家臣としても忠誠を尽くしましたが、主君や家名に縛られず、自らの信念を優先しました。晩年は隠居し、禅の思想や庶民との交流を大切にしながら、穏やかで自由な生活を送りました。その生き様は「自由」と「自己表現」を象徴し、現代でも多くの人々に影響を与え続けています。
武将の中の武将「立花宗茂」〜最愛の妻、誾千代との絆〜
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立花宗茂は、戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した「無敗の武将」として知られる人物です。1567年に豊後で生まれ、幼少期から父・高橋紹運や母の教育を受け、武士としての基盤を築きました。立花家の養子となり、妻・誾千代と共に九州の地を守り抜きました。戦場では冷静な判断と柔軟な戦術、部下や民衆を思いやる姿勢で一度も大敗を喫することなく、「鬼神」と称される戦績を残しました。関ヶ原の戦いで領地を失うも、徳川家康にその実力と人徳を認められ復権。領地では平和を重視した統治を行い、民衆からも信頼を得ました。宗茂の知略とリーダーシップ、そして逆境を乗り越えた姿勢は、現代にも通じる教訓を多く残しています。
天下を支えた築城術「藤堂高虎」〜七人の主君を渡り歩いた武将〜
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藤堂高虎(1556-1630)は低い身分から戦国時代を生き抜き、努力と計画性で成功をつかんだ武将です。浅井長政をはじめ7回以上主君を変えながらも信頼を得た背景には、誠実さと実力があります。彼は築城術で名を上げ、安土城や大阪城の建設にも関わり、実用性と美しさを兼ね備えた革新的な設計で「築城の名人」と称されました。関ヶ原の戦いや大阪の陣では徳川家康を支え、天下統一に貢献しました。その後、津藩22万石を治め、治水や経済基盤の整備に尽力し、「名君」として知られるようになりました。高虎の築城術や戦略眼、柔軟な生き方は現代にも通じ、多くの人々に影響を与えています。
伊達政宗を支えた天才参謀「片倉小十郎」〜戦国を生き抜いた頭脳〜
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片倉小十郎(片倉景綱)は、戦国時代末期に伊達家の名参謀として活躍した武将です。幼少期に培った武芸と学問、伊達政宗との主従関係を通じて、政宗の側近として軍事・内政・外交に尽力しました。特に長谷堂城の戦いでは知略を発揮し、劣勢の状況を覆して伊達家の名声を高めました。また、領地経営では農業や商業の発展を支え、領民の信頼を得る一方、政宗を支える「智将」として活躍しました。死後も彼の功績や人格は高く評価され、後世に多くの教訓を残しています。
「愛」の兜を掲げた名将「直江兼続」〜「愛」と「義」に生きた戦国武将〜
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直江兼続は戦国時代の名将で、上杉家を支えた家臣です。幼少期から学問を重視し、「義」を信条としました。上杉景勝との深い信頼関係を築き、内政や外交で重要な役割を果たしました。特に領民を守るための農業改革や税負担軽減などの政策は高く評価されています。また、徳川家康への「直江状」で知られるその知略と信念は、上杉家の存続に貢献しました。「愛」の兜に象徴される信念は、現代に通じるリーダーシップと義の重要性を教えてくれます。
武田信玄の右腕!「山本勘助」〜戦国時代を駆け抜けた天才軍師〜
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山本勘助は、戦国時代に武田信玄の軍師として活躍した知略家で、その生涯には多くの謎と伝説が残っています。農民出身という説がある一方、武士の家系だった可能性も示唆され、彼の波乱万丈な人生が語り継がれています。勘助は流浪の生活を経て軍学を学び、戦場での観察力や分析力を活かして「啄木鳥の戦法」など高度な戦術を考案しました。また、情報戦や地形を活用した布陣を得意とし、武田軍の勝利に貢献しました。彼の功績は現代にも影響を与え、知恵と努力で困難を乗り越えた象徴的な存在として評価されています。
日の本一の兵「真田幸村」〜戦国時代を生き抜いた知恵と覚悟〜
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真田幸村(真田信繁)は戦国時代の名将であり、逆境の中で輝く生き様を体現しました。父・真田昌幸から柔軟な戦略を学び、大坂の陣で豊臣家に忠義を尽くしました。特に「真田丸」を活用した防衛戦や、少数精鋭での大胆な突撃は「日の本一の兵」と称される所以です。また、家族や仲間を守るリーダーシップや、逆境を力に変える知恵は後世に語り継がれています。江戸時代の講談や芝居で伝説化され、現代でも困難に立ち向かう象徴として愛されています。
戦国の天才軍師「黒田官兵衛」〜天下取りを目指さなかった名将〜
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黒田官兵衛(黒田孝高)は、戦国時代の播磨国に生まれた天才軍師であり、知略と人心掌握術で名を馳せました。家督を継いでからは領地経営を安定させ、姫路城防衛や織田信長への接近を通じて黒田家を発展させました。豊臣秀吉の右腕として中国大返しや四国征伐で活躍し、後に福岡藩の基礎を築きました。官兵衛は無駄な戦いを避け、領民を重視した平和的な統治を信条とし、その知略は現代でも参考になる教訓を残しました。彼の功績は黒田家の繁栄と福岡の発展に大きく寄与し、日本史に深い影響を与えました。
鎌倉攻めから散華まで「新田義貞」〜南北朝の鍵を握った武将〜
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新田義貞は鎌倉時代末期から南北朝時代に活躍した武将で、鎌倉幕府を倒した英雄として知られます。新田氏に生まれた彼は、武士としての誇りと後醍醐天皇への忠義を貫き、1333年には「鎌倉攻め」で幕府滅亡の立役者となりました。しかし、倒幕後の建武の新政は混乱し、足利尊氏との対立が激化。義貞は北陸で戦い続けるも、1338年の藤島の戦いで命を落とします。その生涯は忠義と正義を貫いた武士の理想像とされ、現代でも神社や史跡にその名が刻まれています。彼の信念と行動は、歴史的教訓として人々に語り継がれています。
封建制度を超えた挑戦「高杉晋作」〜奇兵隊創設!維新の立役者が挑んだ幕末の革命〜
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封建制度を超えた挑戦「高杉晋作」〜奇兵隊創設!維新の立役者が挑んだ幕末の革命〜
戦国時代の天才戦略家「北条早雲」〜家臣も領民も虜にした男の「知略」と「統治術」〜
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戦国時代の天才戦略家「北条早雲」〜家臣も領民も虜にした男の「知略」と「統治術」〜
「水戸学史観」「皇国史観」 少なくとも、鎌倉を陥落させたのは足利登子・千寿王軍。 新田義貞は、その一部隊長にしかすぎない。
コメントありがとうございます! ご指摘の「水戸学史観」「皇国史観」については確かにその影響があり得る点、また足利登子や千寿王軍の貢献が大きかったことも重要な視点だと思います。 歴史には多面的な解釈があるため、このような意見をいただけたことに感謝いたします。 今回の動画では新田義貞に焦点を当てましたが、彼が鎌倉攻めの先鋒を務めた点に注目したもので、もちろん単独の功績ではなく、足利勢力との連携があってこその結果です。 貴重なご意見をありがとうございました。
高杉家は小納戸役で150石あり、他の長州の志士に比べたら比較的裕福な家庭であった。上海渡航が晋作の行動を決定したのは間違いないが、幕吏の一員としての参加で多くの優秀な参加者が上海で同じ状況を見聞しているはずで、晋作のみ歴史に名を刻む人物になり得たのは長州藩という環境だったからである。 つまり、長州藩以外で生まれていたらただの凡人として過ごしていただろう。幕末の長州藩の気風と吉田松陰という人物に視点を当ててみたら日本何処であろうと晋作のような傑物が生まれるヒントになるかもしれない。
コメントありがとうございます。 すごく面白い視点ですね。 勉強になります。 幕末は、奇跡的な偶然が幾重にも重なっていて、大変興味深い時期だと思います。 時代が大きく動く時に、晋作のような傑物が生まれているのも非常に面白いです。
新田義貞が、鎌倉幕府を倒したんじゃないか❓😠😠😠😠😠😠😠😠😠😠😠😠
コメントありがとうございます。 おっしゃる通り、新田義貞は1333年の鎌倉攻めで幕府の中心を直接的に打倒し、その功績は歴史的に非常に重要なものです。 義貞が稲村ヶ崎を突破し、北条高時らを自害に追い込んだ戦いは、鎌倉幕府滅亡の決定打となりました。 一方で、今回の動画では足利尊氏の視点から歴史を掘り下げています。 足利尊氏は幕府体制そのものを崩壊させる重要な役割を果たしています。 特に、六波羅探題を攻略し、幕府の中枢機関を崩壊させたことや、武士社会を再編成して新たな秩序を築いた点で、幕府滅亡後の歴史に大きな影響を与えました。 こうして見ると、新田義貞と足利尊氏はそれぞれ異なる形で鎌倉幕府の終焉に関与し、日本の歴史に欠かせない存在であることが分かります。 今回は足利尊氏についての動画なので、このように表現いたしました。
幕末から維新初期に多大な影響を与えた英才達の殆どがその天命をはたしたかのように長生きすることなく亡くなってるというね 病気や暗殺、粛清含めてね。それでも彼らの陰に隠れて二番手三番手だった伊藤や大隈らが立派に国の舵取りしたという 幕末から明治初期どんだけ人材が居たのかがわかる
太く短く生き抜いたということでしょうか。 大きく時代が移り変わるときは、導くための人材が集まってくるのかもしれませんね。 素敵なご意見ありがとうございます。
大方の説明は正しいですが、気になる点があります。 まず、小五郎の実父は藩医で近所の藩士桂家に幼くして養子になります。次に松陰先生との交わりは、松下村塾ではなく、藩校明倫館です。時期的に松陰先生が主宰する時期はかなり後で短い期間だったので塾では学んではいません。 小五郎の凄さは先見性と人材登用能力は仰る通りです。 あとは人間性の優秀さが際立ちます。生き方も生活態度もおごらず質素なのが驚きです。このような能力が育つ原動力は、彼の役どころがその能力を育てていったと考えた方がすんなりします。目の前の課題を誠実にコツコツとこなしていったと思います。今でも欲しい有能な官僚政治家ですね。
ご指摘ありがとうございます。 今後は気をつけてまとめてまいります。 小五郎さんは、調べるほどに優秀な方だったんだと感心いたします。 今の日本にもこのような志の政治家が、1人でも多くいてくれることを切に願います。 参考になるコメントありがとうございました。
武士道とは「死ぬ事」なり❗ 四十七士は、討ち入りを決めた時点で命を主君に捧げていたのでしょう‼️ 日本人の文化や風習は、武士が庶民の手本とされて居たから 現代でも世界で日本人らしさが評価されてると私は思います‼️
武士としての潔さ、美しさに魅了されてしまいます。 私も忠臣蔵は好きです。 コメントありがとうございます。
五稜郭、土方歳三最後の地に3回行きました。
素敵です! 歴史付きとしては、ぜひ訪れてみたい地ですよね。 コメントありがとうございます。
アホなくせに高校生の時に、話しに出てた「燃えよ剣」が、としさんを大好きになったキッカケです。 戦国時代では、破天荒な松永弾正が好きです。
実際は信玄時代も信虎時代と同等、あるいはそれ以上に重税だったらしいです。 これは「妙法寺記」という古文書だけでなく、「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本にも書かれています。 例えば、戦国時代の固定資産税とでも言うべき『棟別銭 むねべつせん』が織田とか北条とかだと1年間で50文~100文が相場であったらしいが、武田での最終相場は200文と他の大名の倍近く取り立てていたようです。 武田家の棟別銭は、廃屋や住居として適さない小屋、所有者不明の無人の空き家まで適応させられたらしい。 それらの棟別銭が納められなければ地獄の連帯責任で村の負担になる。 これは現代で考えれば、己と何の血縁関係もない隣人の税を負担しろと言われているのと同じです。 しかも、武田家の『過料銭(罰金)』制度は実に些細な罪で罰金を科せられ、逆に重犯罪者は罰金で見逃してもらえたらしいです。 当然、払えない者は磔にて処刑されるだけならまだマシかもしれないが、本来罪人にかけるべき『過料銭』を領地全ての無実の民にまで課してしまう程だったらしいです。 甲斐は四方を山に囲まれ、海に面した港がない。 物がほとんど流れてこない為に人が集まらない。 平地も少なく土壌も火山灰であり、耕作に向いていない。 しかも度々洪水まで起こる。 だから他国に侵攻して他所から土地やお金、食べ物とかを奪っていく事でしか生きていく道がない。 更には武田家自体信玄の祖父・信縄や父・信虎の長い戦いによって今川や関東管領上杉、北条に加担した国衆達を打倒したり一門衆に引き入れたりしてようやく統一した過去がある事に加え、信虎に不満を持った家臣らが信玄を担ぎ出して信虎を追放した事から家臣達の力が強く、武田家は甲斐の代表に過ぎず絶対的な主君とは言い難い状態だった。 信玄は話し合いを重視したとも言われてますけど、実際は家臣や国衆達の意見を抑えられなかっただけなんじゃないのかと思います。 信玄時代に武田家が結束していたとされるのも、他所から土地やお金、食べ物とかを奪って家臣達に利益を与える事ができていたからに過ぎないのではと思います。 外交に関しても、駿河に侵攻して北条を敵に回し、更に信玄と家康のどちらが不義理をしたのかは分からないが、徳川家康に徳川・北条・上杉の武田包囲網を作られて当時同盟していた織田信長に家康を何とかしろと信玄は言っていたらしいです。 そしてその信長に対しても、上杉謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻める不義理をした為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させたらしい事から、周辺諸国の武田家への信用を地に落とす振る舞いを信玄自身がしているなと感じました。 私は武田家滅亡は勝頼のミスも多々あったのかもしれないが、根本的な原因は甲斐の貧しさとそれを打開する為の信玄の行動がその時点では最善あるいは最良であったのだろうが禍根を残し、結果として勝頼の代に負の遺産になったからだと思っています。 私が思う勝頼のミスは高天神城を救えなかった事と新府城築城のタイミング(私は信玄時代に作っておくべきだったと思っています)であり、長篠の戦いと御館の乱での勝頼の判断は間違ってはいなかった、間違っていたのだとしても勝頼の立場や状況で考えたら仕方なかったと思っています。
とても興味深いコメントありがとうございます。 すごく勉強になります。
日本かな?
土方歳三の最期の地、北海道をイメージしてみました。