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東大阪エリムキリスト教会
Япония
Добавлен 8 апр 2013
We are a Christian church in Higashiosaka City. We spread the message of the Bible through Sunday services and social media. Our hope is that many people will be able to hear the words of the Bible. Sunday services are from 11:00 am to 12:00 noon. We are a Protestant Christian church. Everyone is welcome to come. In addition to Sundays, we also have weekday programs. For details, please visit our website.
Church homepage: elim-church.net
We also have language classes. Teacher Kathy teaches English conversation and Chinese. One-on-one lessons are available in person or online. Dates and times are negotiable. There is a fee. Teacher Kathy can also speak Japanese, so you can have fun talking while you have lessons. For details, please visit our website. We look forward to hearing from you.
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日曜礼拝 星に導かれて
0:00 賛美3~4曲
20:11 説教
66:00 献金
こんにちは。東大阪市にあるキリスト教会です。「全ての人に聖書の言葉を届けたい。」それが私たちの願いです。聖書のメッセージを日曜礼拝、SNS ( RUclips / ユーチューブ RUclipsショート) などを通して広めています。
【ホームぺージ】
東大阪エリムキリスト教会 elim-church.net
【日曜礼拝】 毎週 am11~12時
どなたもお気軽に、普段着でお越しください。クリスチャンではない方も歓迎いたします。教会は心のオアシスです。礼拝を通して励ましと生きる勇気と希望を受け取り、新しい1週間へと向かっていきましょう。
【アクセス】
東大阪市役所から徒歩5分
荒本駅から徒歩3分
【語学教室 】
英会話レッスン 中国語レッスン
kathy先生 (マレーシアの宣教師) 英語、中国語、日本語、マレー語の4か国語を話せます。対面でもオンラインでも学べます。時間は応相談。お問合せをお待ちしております。
詳しくはこちらをどうぞ。elim-church.net/%e8%8b%b1%e4%bc%9a%e8%a9%b1%e3%83%bb%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e8%aa%9e/
【プロテスタントの教会】
統一教会、エホバの証人、モルモン教などではありません。
#キリスト教
#聖書
#クリスマス
#東大阪市の教会
#プロテスタント
#教会
#ゴスペル
#東大阪市の英会話
#東大阪市の中国語
#英会話レッスン
#中国語レッスン
20:11 説教
66:00 献金
こんにちは。東大阪市にあるキリスト教会です。「全ての人に聖書の言葉を届けたい。」それが私たちの願いです。聖書のメッセージを日曜礼拝、SNS ( RUclips / ユーチューブ RUclipsショート) などを通して広めています。
【ホームぺージ】
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【日曜礼拝】 毎週 am11~12時
どなたもお気軽に、普段着でお越しください。クリスチャンではない方も歓迎いたします。教会は心のオアシスです。礼拝を通して励ましと生きる勇気と希望を受け取り、新しい1週間へと向かっていきましょう。
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東大阪市役所から徒歩5分
荒本駅から徒歩3分
【語学教室 】
英会話レッスン 中国語レッスン
kathy先生 (マレーシアの宣教師) 英語、中国語、日本語、マレー語の4か国語を話せます。対面でもオンラインでも学べます。時間は応相談。お問合せをお待ちしております。
詳しくはこちらをどうぞ。elim-church.net/%e8%8b%b1%e4%bc%9a%e8%a9%b1%e3%83%bb%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e8%aa%9e/
【プロテスタントの教会】
統一教会、エホバの証人、モルモン教などではありません。
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日曜礼拝 ヨセフの悩み
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0:00 賛美4~5曲 18:43 メッセージ 53:05 献金&賛美 こんにちは。東大阪市にあるキリスト教会です。「全ての人に聖書の言葉を届けたい。」それが私たちの願いです。聖書のメッセージを日曜礼拝、SNS ( RUclips / ユーチューブ RUclipsショート) などを通して広めています。 【ホームぺージ】 東大阪エリムキリスト教会 elim-church.net 【日曜礼拝】 毎週 am11~12時 どなたもお気軽に、普段着でお越しください。クリスチャンではない方も歓迎いたします。教会は心のオアシスです。礼拝を通して励ましと生きる勇気と希望を受け取り、新しい1週間へと向かっていきましょう。 【アクセス】 東大阪市役所から徒歩5分 荒本駅から徒歩3分 【語学教室 】 英会話レッスン 中国語レッスン kathy先生 (マレーシアの宣教師) 英語、中国語、日本語、マレー語...
[ エリムワーシップ]主イエスを愛する/Ku Mau Cinta Iesu (ROMAJI)
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[ エリムワーシップ]主イエスを愛する/Ku Mau Cinta Iesu (ROMAJI)
【エリムワーシップ】Ku mau cinta Yesus 主イエスを愛する
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【エリムワーシップ】Ku mau cinta Yesus 主イエスを愛する
でも、神さま、私は悲しいです。 主よ、助けてくださいと言います。😢❤
悲しみに、主のなぐさめがありますように。
ハレルヤ!❤🎉
アーメン!~ハレルヤ☀
アーメン
周りの悪口には乗らず、自分の意思で言葉で責任もって悪口を言おう!
聖書でイエス様が嗜めるセリフはいっぱいあるけどこうやって宥めるセリフってほとんど無いから本当にコレみんな相当なパニック状態だったんだろうな
へぇ、そうなんだ。 でも僕は働くよ。 だって、働かないと食べていけないからさ。 そして毎日寝る前、ご先祖様に今日も1日元気に過ごす事が出来ました、と、感謝のお祈りをする。 僕は、幸せです。
アーメン
ですからあなた方は帰還する事ができません でもまあ確かに難しいですよね。こんだけ汚れた世界で純粋になれなんて無防備で自殺行為にちかい。でも世界を創る側はそんな歪んだ考え方してるので、こう成るわけで、あなた方も歪んでいますよね。でも超電子頭脳の中にまだ完璧ではない仮想空間を作ってますよね。そこで遊んでいますよね。それをふまえてこの世界は仮想空間です。だからあなた方は汚れ方が激しいので更に空間のシステムに騙されるんですよ。あなた方の問題です。 わたしは迎えに来ただけですから回収ができるできないに関わらず出来る限り門と道として大義名分もあり環境を維持しなければなりませんが、それだけではつまらないので一言。最大限楽しむ事にしました。
キリスト
アニー懐かしいです😢😮🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉🎉😢😢😢
竹腰先生、メッセージありがとうございます。れい子さんに昇天者記念礼拝をしていただいてありがとうございました。今日の聖句はトマスにイエスの行く道を尋ねられた際、イエスは「私は道であり、真理であり、いのちなのです」と答えられたことです。この当時、多くの信徒は神としてヤハゥエを信じていました。それをイエスは「私は道であり、真理であり、いのちなのです」と言ったのは、神ヤハゥエからの独立宣言だったと思います。イエスの言葉を信じて、それを貫いたのが、その後の多くの人がクリスチャンとなりました。私もこの聖句をはなみ離さず、しっかりとつかんでいきたいと思っています。 メッセージありがとうございました。 2024年10月19日 平野信喜
いつも、コメントをありがとうございます。イエス様の言葉を信じて、信じぬく。そのように、私も生きていきたいと願います。聖書の言葉を、肌身離さず心の中で持ち歩きたいと思います。涼しくなりましたので、お体ご自愛ください。
黙示録3:20とは...
聖書箇所です
イエス・キリストの死を無駄にしないでください
竹腰先生、メッセージありがとうございます。この場面で2人を登場させましたが、それは今私たちクリスチャンを代弁していると思っています。先生は勇気を奮って公に告白しなさいと言います。先生のような伝道師なら別ですが、多くのクリスチャンは困難なのです。それをすると浮いてしまうか、仲間外れになることが多いのです。信者さんの立場になってメッセージをください。辛辣なことを言いましたが、よろしくお願いします。 平野信喜 9月26日
コメント、ありがとうございます。確かに、日本の社会でクリスチャンであることを告白する事は、難しいところがあるかと思います。家族や友人たちに、自然な形で、クリスチャンであることが伝えられたら幸いだと思います。
自然な形で自分がクリスチャンと名乗るのは、家族、友人にも公になっているので、欧米と違い困難ですよ。 先生はまだ分かっていらしらないと思います。 2024年9月28日 平野信喜
竹腰先生、メッセージありがとうございます。先生のこの部分のテーマは弟子12人と司祭長派とローマ兵600人との対峙やイエスの神性宣言とイエスが弟子を守ったことを話されました。わたしは先生と意見を異にしています。それは、ユダがイエスを裏切る理由を持っていて、それを知っているイエスと弟子ユダとの信頼関係を現わしていると思うのです。 なぜならば、イエスと寝食を共にし、イエスを尊敬したユダが、なぜわずかのお金を手に入れようとイエスを裏切ったのは今まで不思議でなりませんでした。その解決のヒントは先生の言う通りイエスがユダの言動を預言して、ユダを信頼して自分の運命を受け入れたことです。ユダの裏切りの言動がなければ、十字架の道に進まなかったと思います。イエスはどれだけ自分に進路の道を作ったユダを愛していたと思うのです。ユダがなぜイエスを裏切ったのか、またイエスがユダを全面的に受け入れ入れ、愛したことを理解できた先生のメッセージをもらい、本当にありがとうございました。 2024年8月28日 平野信喜
コメント感謝します。イエスのユダへの愛、そしてユダの裏切り、人生には「なぜ、そんな事が・・・」と思うようなことが、起こることもあります。決して受け入れられないような事を、イエス様は受け入れられました。そのようなイエス様は、やはり、私たちの救い主だと改めて思わされました。コメント、感謝します。 台風が近づいていますが、安全が守られますように。
先生、返信ありがとうございました。明日は雨なので主日礼拝を欠席します。なぜ、私が先生に返信を書いたのは、聖句であるみ言葉の内容はその書かれている文脈で解釈した方が、納得がいくというのが私の考えです。 先生はヨハネ18;1~11の箇所をユダの裏切りを「人生にはなぜ、そんなことが・・・」と思うことが起きることがあります。ユダの裏切りは「その一つでイエスは、彼の裏切りを受け入れました。それでイエスは私たちの救い主だと改めて思わされました」と書かれています。ユダの裏切りを受け入れたのは、何ゆえかというのがこの箇所のテーマであり、ポイントだと思います。 先生の言う通りヨハネ18;1~11ではそれがイエスが私たちの救い主と改めて思わされたという文脈にそぐわないのです。なぜならば、この箇所は今まで信頼してきたユダがなぜ裏切ったかを説明する内容と私は思います。 この箇所からあ600人の祭司長とローマ兵との対峙やイエスの神性宣言、イエスの守られた弟子たちを説明するのには飛躍があります。できましたらその文脈から解釈してくれるようにお願いします。返事ありがとうございました。 2024年8月31日 平野信喜
明日の礼拝、雨のため、欠席、了解です。明日から始まる一週間も、イエス様の平和と守りがありますようにお祈りいたします。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。 ヨハネ16.33の「私はすでに世に勝っている」というみ言葉を以前では理解できませんでした。これは、苦難に遭ったイエスがそれを克服した文章です。なぜ、イエスの私はすでに世に勝っているというイエスが私も世に勝っていることになるのか不思議でなりませんでした。これを体験する人はイエスと共に実践し、それに疑問を持たず、一貫して信仰を貫く人だったと思います。 例に出された筆子さんは、自分が障害児を産んで、母親として育てなければならない使命を持ったと思われます。障害児の母親でなかったら貴族社会で苦しみを受けず、人生を送ったと思われます。イエスは、多くの人の罪の贖い、救いという使命を持って十字架にかけられました。これがイエスの使命なのです。それができるのはイエスと全く同じ贖いの苦しみを持って人生を送った稀な人と思われます。 私は違います。苦しみや悩みがあると、そこに流れます。本当にちっぽけな人間です。それでも軌道修正して、信仰を保つようにできるのは、小さな弱い人に仕えるイエスを聖書で知ったことでした。わたしも人生で小さく弱い人間と関わりあってきたからです。一貫してイエスを信じて従ってきた人間ではありません。だから細々と付いていっているのです。自分の信仰の在り方が分かって良かったと思いました。メッセージありがとうございました。2024年8月13日 平野信喜
いつもコメント、ありがとうございます。 細々と歩む足取りに、ゆっくりと進んでいく足取りに、時には止まってしまう足取りの中にしか見えない世界、恵みがあると思います。 私もちっぱけな人間です。大股で堂々とした歩みではありませんが、細々とした歩みの中に、主の恵みを思います。 今日も主の恵みの中に生かされていることを感謝します。平野さんの健康が守られますようにお祈りいたします。
私のメールの先生の誤解について 竹腰先生、一生懸命週報の返事を書きましたが、先生は全く誤って、私の文章を捉えました。イエスが世に私は勝っているというみ言葉が、なぜ私が救われたのかの疑問でした。これはイエス自身の私たちの罪をあがなう使命としての信仰告白だったのです。 私がすくわれたのは、イエスが弱い、小さな人間に立って救ったことでした。それは新約聖書に貫かれています。そのイエスの勇気や人間性に支えられて私は生きています。わたしは、先生のいうようにちっぽけな人間で堂々として歩みをしていません。また、主の恵みで生きています。そうでなく、わたしがイエスのように人々の罪の贖いで、生きていないのです。 イエスの小さく、弱い人間を救ってくださったお方を信じて生きているのです。なお、明日の主日礼拝は出席できます。よろしくお願いします。 2024年8月17日 平野信喜
イエス様の小さく、弱い人間を救ってくださるお方を信じて生きているとのこと、よく理解できました。 イエス様の素晴らしさを、日々、思いながら、知らされながら、主の恵みを体験していきたいと思います。感謝します。
ア―メン❤水音が涼しげで とても良いですね😊
昨日、先生にご迷惑をおかけしました。実は、かばんの中にクリアファイルが入っていないと思ったのです。だんだんぼけている自分があります。一つ一つは老いや死に近づいているのですね。 さて今日のメッセージは心騒ぐことには、徹底的に祈りきって、信じ切ることを教えてくれました。弟子でも、イエスがいるにも拘らず、心騒ぐことがあります。ましてや、現代ではイエスは面前に現れないのですから、頼るのは、聖書です。その聖書で心騒がないようにすうrには、ただイエスを理解するだけではできません。イエスの心のうちに抱くことです。それには、イエスを聖書から信じ切ることです。 それには、イエスに委ねる気持ちを持つことです。私はイエスに悩みや願いを言ったのち、主の御心のままにという言葉を付け加えます。祈りで悩みや願いを解決することはありません。解決するとラッキーで、できないときは、神の御心と思い、あきらめ、また繰り返したらよいのです。このメールを打った時、3回失敗してようやく書けました。書けたことに感謝しています。メッセージありがとうございました。 2024年7月22日 平野信喜
コメント、感謝します。クリアファイル、見つかってよかったです。暑い日差しの中、電動車で礼拝に来られる姿に、私たちが励まされています。 日々、少しの事で心が騒いでしまいます。私の場合、母が少しでも発熱していると、すぐに動揺してしまいます。 そんな日々を過ごしていますが、聖書の言葉とお祈りにより、心を静めていきたいと願っています。来週、礼拝にお越しの際も暑さから守られますように。 竹腰明人
ruclips.net/channel/UCwdZPvd5-BaObDIE2BuRTag
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竹腰先生、メッセージありがとうございます。私は、旧約聖書レビ記19;18に少し変えて自分で使っています。それは自分を愛することができるように人を愛するようにしなさいということです。私たちはイエスのように完全な愛を持てません。少しでも近づくには、自分の不完全な愛を自覚することです。それは、私たちが自分を含めて、相手にエコひいきやしっとを無意識的にも意識的にもしていることです。その時、それを自覚すると、自分自身や相手にプライドを捨てて,謝ることです。プライドを捨てるなら、できます。できる限り、私は、そうしています。 メッセージありがとうございました。 2024年7月15日 平野信喜
コメント、ありがとうございます。「自分を愛する事が出来るように」「人を愛する」こと、とても良い姿勢だと思います。私も、実践したいと思います。人を愛することに努めることにより、自分を愛することができるようになる。確かにそうです。 今週、私は、苛立たない愛を実践しています。今の所、いつもよりも、苛立つことなく過ごせています。やはり、意識すると違います。 暑い日が続きます。お体ご自愛ください。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。今日のメッセージはイエスが一粒の麦に例えて、自分が亡くなると、豊かな実になるというのです。ここで2つの教えがあると思われます。 一つは、異邦人たちがイエスのお会いしたいという場面で、ここではただ会うのでなく、彼らは「イエス様、あなたの使命は何ですか」と問うて、その回答に答えて、イエスが後4日目の十字架につけられる最期を言ったと思われます。 2つ目は一粒の麦がただ生きているだけでは、それは、自分の生を継続させるだけで終わりとなり、反対に朽ちる(死ぬ)と大地の肥やしとなって、環境を豊かにさせるという自分の使命を遺言のように告白したと思われます。 私たちは、誰もが死を迎えますが、自分が亡くなっても、その死が何らかの形で、後の人(家族、友人など)への生き方になるように、生きたいものです。そのためには、「今、ここで」の生き方をいつも自覚する生き方をしなければならないと自覚しました。 2024年6月30日 平野信喜
コメント、感謝します。「今、ここで」の生き方を自覚すること、大事な視点だと思います。私も大地の肥やし、残された人達にとって、有益な者となれるように日々、努めたいと思います。そのためには、「今、ここで」どのように生きるのかを、自分に問うていきたいものです。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。信徒として大切なことを教えてくれました。それは、エルサレム入城でイエスが子ロバに乗って来られたことです。その5日後、イエスは受難に遭い、十字架につけられます。小さい弱い子ロバがその道を支えているのです。イエスの栄光の道を支えているのは、弱い小さい子ロバとしての私たちです。この栄光の道を支えたのはイエスがへとへとになった十字架を代わりで持ったシモンでした。だから、イエスを信じて、彼の気持ちを理解すれば、私たちも子ロバにも、シモンにもなれるのです。私もそのような信徒になりたいと思っています。 2,024年月26日 平野信喜
いつもコメントをありがとうございます。小さい弱い子ロバとなり、イエス様の栄光の道を支える者となりたいと願います。イエス様の気持ちを共有できるものになりたいと願います。 これから、暑さが厳しくなってきますので、お体の健康が守られますようにお祈りいたします。
ケーティ先生、メッセージありがとうございました。まず、先生のメッセージは、ラザロの復活を通して、イエスの御業を現わしているのですが、ラザロの復活の物語を超えて、イエス論に行っていると思われます。聖書に書いているように、命の危険なところにラザロを救うためにイエスは乗り込んでいくのです。自分を捨ててまでも隣人愛に燃えていると同時に、神に遣わされたイエスが、それを大衆に知らしめそうという意図があったと思います。 ラザロはその手段なのです。そして、マリアやマルタはラザロをよみがえらせたイエスの奇跡を見て、イエスが神と分かったのでしょう。問題はイエスの奇跡のエピソードからどのような信仰を持って行くと良いのでしょうか。 それは、日常生活の中で、ラザロのような奇跡でなくても、病気の自分、貧困で飢えている自分、人間関係で悩んでいる自分が少しでも希望を持って行くならば、それが奇跡となるのです。小さなことでも奇跡と思える信仰を持ちたいものです。 平野信喜 2924年6月11日
ハレルヤ🙏 イエス様を信じる私たちは必ず奇跡を見ます❤ 主は想定外のことも物も見せてくれます! コメントありがとうございます。ケイテイィです🤗
今日のメッセージは、私にとって切実な課題でした。なぜ、イエスが救い主で私たちを救ってくださっているのか。また、私たちは、イエスを救い主として、救われた私たちが認めるのか。前者はヨハネ10:30で述べているようにイエスは「私と父は一つです」といい、イエスを通じてしか神を見ることができないのです。後者はイエスの奇跡を見ただけでは救い主と見なしていなかったのです。例えば、5000人の飢えの人にわずかなパンと魚で満たしたイエスに多くの人が救われたのでなく、またペテロはイエスを救い主と言っても、聖書の文脈から弟子たちはイエスが十字架にかかり、復活した時、初めてイエスを救い主と自覚したのです。弟子の前で奇跡を起こしたとしてもイエスを自分を救ってくれた救い主とは見なさったのです。 それならば、いつどこで、イエスを救い主と見なし、彼に従ったのでしょうか。私にはそれを明らかにする聖書の箇所を見出しました。それはマタイ25章35~40です。ここで、イエスは自分が飢えていた時、食べ物や飲み物をさし出し、旅をして路頭に迷っている時、宿を提供し、着るものがない時、服を提供し、病気になった時は看病し、牢屋に入れられた時に慰めにきたことを想像すると、私でなくてもそのような弱い、小さな人間にしたときは、私にしたと覚えていなさいと言っているのです。このたとえは、イエスは奇跡を起こす者や権力者でなく、弱い小さな人間なのです。 そのイエスの心根にうたれ、多くの信徒はこのようなイエスに命を懸けて従って行ったと思います。それはイエスの十字架と復活の姿を弟子が見たからです。私たちは2000年前の十字架と復活を見ていないのですが、聖書で彼の様子(自分を弱い小さな人間)を前面に出し、それでも私たちを救ってくださるイエスに感銘して、イエスに従って行こうと思っているのと思われます。私は奇跡を生じさせるイエスでなく、自分を犠牲にしてまでも私たちを救ってくれるイエスに従いたいと思います。2024年6月3日 平野信喜
先生、お返事のメールを送ってください。お願いします。 平野信喜 2024年6月8日
返信が遅れて申し訳ありません。 イエス様を私の主として、従っていく決意を持つ時は、人それぞれに色々とあることでしょう。救いの数だけ、証がありますので。イエス様が弱き者として、名もなき小さな者としてご自身を現し、そのイエス様に従っていくことも、主の奇跡だと思います。 弱き者と共にあゆみ、弱き者を愛するイエス様に従う姿を通して、イエス様の愛を知り、イエス様の救いが広がっていくことは、素晴らしい事だと思います。 昨日は、愛知県の教会でメッセージをしてきました。6/9はケイティ先生のメッセージとなります。また、コメント、楽しみにしています。 今週も、イエス様の平和がありますようにお祈りいたします。
竹腰先生、返信ありがとうございます。 平野信喜 2024年6月10日
竹腰先生、メッセージありがとうございました。今日はペンテコステですが、それが、今日のメッセージの主題ではないと思います。ヨハネ9:1~39では2つのテーマが語られています。一つは障害を因果応報でなく、神の業(救い)を明らかにすることです。2つ目はイエスが奇跡を起こすキリストを明らかにすることです最初の障害を救いと捉えることは、イエスが救い主と信奉し、イエスを求めることに成り立ちます。私は生まれつきで遺伝で生まれた障害なので差別されいじめられてきたので、何もしなかった両親を恨みました。しかし、私の障害を受け止めてきた妻とその家族に救われました。そして、イエスを知ることで、彼女達が私にとって救いとなり、彼女たちも私の苦労を知って救いとなってきたのです。イエスが私の前に妻を現したのは救いと思っています。 第二のイエスの障がい者に対する奇跡はイエスが救い主であることを明らかにすることです。奇跡はたまたまなので、イエスはすべての人に起こしません。問題なのは、奇跡を生じない多くの人が救われていないことです。障害があって福祉があっても自死したり、悲惨な状況に置かれています。キリスト教は人々を救うことに使命があるのですから、この人たちに教義の押し付けや同情ではなく、寄り添って手救いの手を指し伸ばす業が必要なのです。それは暖かい人間性を養う必要があるのではないでしょうか。私もその一人になりたいと思います。2025年5月23日 平野信喜
こんにちは。いつもコメント、ありがとうございます。イエス様により生涯を共に歩み、支え合う奥様が与えられたこと、そこに主の救いがあることを感謝します。イエス様の救いは、魂の救いのみにあらず、生き方までも救ってくださることを感謝します。 この世にあって、弱さを抱えている方々に寄り添っていくことも、肝に銘じたいと考えます。良きサマリア人のように生きているのか、探られます。 今日も主の平和がありますようにお祈りいたします。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。今回のメッセージはイエスの十字架を通じて、自分たちがいかに罪から救われたことを教えてくれています。これを理解するには、2つの条件が必要です。一つはイエスがなぜ冤罪なのに、鞭打たれ、十字架につけられたかです。それは私たち罪人を罪から救うためなのです。それだけでイエスは苦しんで、命を全うしたのです。私たちはイエスの苦しみを体験できませんが、それを自分のようにと想像できます。その想像こそが、イエスと一体化でき、この十字架の意味を理解できるのです。 もう一つは罪の自覚です。罪は自分が罪を犯していると自覚しなければ、明らかになりません。それは、十字架の苦しみで罪を取り去ってくださったイエスと対面することです。罪は自分の恥部ですので、容易に人の前にはさらせません。信頼できるイエスならばさらせるのです。イエスにそれができるのは、私たちに十字架の苦しみをそのままあらわしたイエスの姿です。受難週と十字架のイエスのありのままの姿を想像していけば、素直に罪を認め、救われると思います。今週もイエスと対面して、罪を自覚していきたいと思っています。メッセージありがとうございました。平野信喜 2024年3月24日
コメント、感謝します。罪に対する理解、罪人を救うため、私たちの罪の自覚のためであること、イエス様に感謝します。イエス様は、すべての罪の恥をご存じですから、主の十字架の前に立ち、すべて告白する受難週を過ごしたいと思います。 主の平和がありますように。
けいてぃーさんおげんきですか!またーてつです?!
❤😮🎉😢😂😅ながいにゅういんになりました。またよろしく!
コメント、感謝します。入院中もイエス様が共におられます。退院出来ますようにお祈りいたします。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。今日のメッセージは、いかに心を充たさせ、また、どのように真の礼拝をすることができるかです。心の充たされるのは先生の言うように一時的な快楽ではありません。心の充たされるのが人生を通じてあるもののことなのです。先生はそれをキリスト教の信仰だけを求めていますが、それでなくても、生きがいで心の充たされるものがあり、それを一生続けるものでも良いのです。それを育てることが宗教と思います。 また、真の礼拝は自分にこれを信じたら救われるというものを持つことです。サマリアの女性は、イエスが預言者と見極め、この人こそが、自分を救ってくれる人と分かったのでしょう。救われる気持ちを絶えず持続させることが真の礼拝だと言えます。メッセージありがとうございました。2024年2月29日 平野信喜
コメント、ありがとうございます。 生きがいを持ち、心満たされて生きることは、価値ある時間になると思います。 私は10代後半から20代にかけて、ずっと生きがいを求めていました。特に、どんな職業につけば心が満たされるのかを探り、考えていました。 今は、父親である事、息子であること、夫であること、牧師であること、4つの面で生きがいを感じて生きる事が出来ていることを感謝します。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。イエスが最初に弟子を取るのは、商人でも農民でもありません。なぜ最初の弟子が漁師のアンデレと兄弟のペテロにしたかです。 先生は友達の選び方、子羊、ゆりなちゃんの洗礼、アンドレイの五千人のきっかけという先生にとっては一貫している話をなさっています。それはキリスト教に入るきっかけなのです。アンデレとイエスが出会った場所はガリラヤ湖の湖畔だったと想像します。 漁師は取れた魚だけでなく、レビ記に書かれているうろこのないなまずやうなぎも取ったと思うのです。これらを食べたり、売ったりすると律法違反であり、罪人になってしまいます(レビ記10.9-11)。それを隠して漁業をしているから、罪の意識をどこかで晴らそうとしたのでしょう。そこにバプテスマのヨハネが言っていたイエスが来たのですから、罪の意識を晴らすイエスについて行ったと思われます。 今まで、なぜアンドレイが漁師を捨てて、イエスのもとに従ったかは、自分以外に罪に苦しんでいる人を助けたいと思って、その気持ちをくみイエスはペテロに「今から人間を取る漁師になる」(ルカ4.10)と言ったと思われます。2024年1月25日 平野信喜
コメント、ありがとうございます。 アンデレがイエス様に求めていたもの、その中に罪からの解放があったのでしょう。罪がどんなものであるのか、また罪の意識を持てることは、大事な気づきだと思います。 イエス様と出会う事により、人は本当に自分が罪人なのだという意識を持てるようになるのでしょう。
竹腰先生 メッセージありがとうございます。今日のテーマはパウロのアグリッパの裁判による信仰告白です。彼はダマスコでのイエスを通して、罪の自覚からイエスへの信仰を得ました。信仰告白は、自分の自慢や苦労を話すだけではないのです。信仰告白は罪を自覚して、それがイエスによって救われている確信から来ます。パウロはイエスと出会い、罪の自覚を得て、イエスによって救われたのです。私たちの前には現存のイエスはいません。イエスの確固たるイメージを作り、その前で罪を告白し、赦されることで救われるのです。私はこの作業を絶えず通して、信仰が深くなっているように思います。メッセージありがとうございました。2023年11月23日 平野信喜
コメント、感謝します。罪の自覚を得、赦しをえていくことで、信仰が深くなっているとのこと、そこに主の確かな恵みがあると思います。また、主イエス様への愛、隣人への思いやりと理解も深くなっていくと思います。イエス様の十字架に心から感謝します。
フランクルの夜と霧は私も何度も読みました。クリスチャンの方には是非読んで欲しい一冊です。
コメント、感謝します。夜と霧を何度も読まれたとのこと、素晴らしいです。 私は、メッセージで語っておきながら、すべて読んだ事がありません。一度、全文んを読んでみたいと思います。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。いつも不思議に思ったことがあります。それはパウロは三回の伝道旅行を敢行したことです。もちろんこれは観光旅行ではありません。パウロはイエスの考えを異邦人に伝え、そこで各地に教会を作り、確立させたのです。この3回はイエスは3年にわたる宣教で自分はエルサレムに行って、受難を受け、殺されると弟子に言っているのと類似します。 エルサレムはイエスにとって栄光の神聖な場です。そこで自分が殺されるのです。この三度の告白で、刑場に連れられて行きます。パウロも三度の伝道旅行をして、大都会ローマに連れられ、殉教します。イエスが三度の受難と十字架の歩みを言ったのち、十字架で殺されても、弟子は周囲がユダヤ教なのに自分のことを分かって世に広めたと同様に、パウロは異邦人伝道で周囲の多神教信仰の中でイエスを伝いたいという思いが実り、教会が発展し、それを見届けて、ローマで殉教するのです。イエスとパウロは生き方は類似していると思われます。 私の推測ですがパウロはイエスの精神や考え方、生き方を徹底的に学んだ人と思われます。私たちクリスチャンは多宗教信仰に囲まれています。そこで、信仰生活を送るには、パウロのように、イエスの考えや思いを徹底的に捉える必要があると感じました。 2023年10月12日 平野信喜
コメント感謝します。イエス様の十字架の三度の告白。パウロの3回の伝道旅行。パウロとイエス様を重ねてみることにより、より、神様のみ心が、深く見えてきます。感謝します。イエス様の公生涯は約3年、パウロの伝道旅行も、1回、1回は、3~5年くらいだったと思われます。その限られた時間、短い時間のなかで、限られた命を、より大切に使おうという心が、伝道の情熱になったのかもしれません。イエス様の考えや、思いを、日々、思いめぐらしつつ歩みたいものです。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。今日は自分自身のアンティキア教会に行かず、鎖と苦しみが待っているエルサレム教会に行く意味を説いていると思っています。この鎖と苦しみは殉教を意味します。殉教は自分と敵対的な人物(パウロにとってはグノーシス派)に、その人を命を懸けて受け入れることと思っています。なぜ、パウロはそうしなければならないのでしょうか。知識の神的賜物であるグノーシスはイエスと別に神であり、ヨハネ1章に「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。それは父のこのひとり子としての栄光であって、恵と真理とに満ちていた」があります。イエスの言行が神そのものなのです。グノーシス派はそれを否定するものですから、イエスが殉教の決意でエルサレム教会に向かったものと思われます。だから、3年間天塩に育てた弟子に対して告別メッセージを述べたと思われます。私は今殉教に値する対象を持っていません。それは聖霊やイエスがもたらしてくるのでしようか。私には分からないのです。
いつも、コメントを感謝します。今も国によっては殉教者が数多くいると聞いています。それは国家体制と独裁者などの環境によるもが多い事でしょう。 殉教に値する対象という事であれば、国などの環境ではなく、その人の生き方、心の持ちようにより殉教者になっていくことになるでしょう。 その対象を内側に求めるのなら、自己に死ぬということでしょうか。日々、自分の背負うべき十字架を背負う生き方、自己中心と自己利益を追求する己に死んでいく道であるなら、その道に向かって進んでいきたいものです。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。今日は、パウロの伝道方法で「教える」と「聴く」という方法を知りました。教えるのも難しいですが、聴くはもっと難しいと実感しました。私が教師時代大切にしていたのは聴くことでした。聴くのは結論があったとしても、それを出さず、自分自身が絶えず疑問を持って学生に向かい、学生の考えを黒板に書いていきました。また、これをするためには、疑問を学生に出せる関係性が必要です。上から目線や説教や教える立場では関係性は作れません。また、学生に疑問を持たせるには、多くの意見があありますから、それを受け取る度量が必要です。おそらく、パウロは三回の礼拝で、この関係性、度量があったと思います。教師時代を振り返ることができました。ありがとうございます。
コメント、ありがとうございます。聴く講義をしておられたという事、素晴らしいと思います。確かに、聞く事は難しさもあります。ただ音として聞いてしまっている時もあります。その人の心の思いまで、聴くことができたら幸いです。身近な妻の声、子供の声を、しっかり聴けるようになりたいものです。 まだ、暑い日が続きますので、お体の健康が守られますようにお祈りいたします。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。今日は「安全地帯を出て行こう」を教えてくださいました。安全地帯は2つの意味があると思います、一つは物理的な安全地帯です。エルサレム教会の信徒は迫害されたのですから、そこから、逃げなければなりません。それは安全地帯からの脱出です。それでユダヤやサマリア地方に逃げていきました。 もう一つは精神的な安全地帯からの脱出です。これは今までの心の支えと異なる信条で生きるのです。洗礼だけでは、これは十分ではありません。ある意味では束の間の一種の儀式です。これを持続させるには、強い信念が必要です。これで一生生きるものですから、確固たるもの、それは、自分が罪を絶えず自覚して、イエスに救われているという気持ちを一生持ち続けることでしょう。 カトリックでは、洗礼の他に堅信という儀式があります。罪を絶えず意識して、カトリック信者として一生神に仕えることを決意する儀式です。私はこの儀式で一生クリスチャンとして、生きる覚悟ができました。この安全地帯からの脱出を教えてくださってありが とうごさいました。 2023年7月9日 平野信喜
コメント、感謝します。絶えず、罪を意識して、イエス様に救われているという信仰を持ち続ける事。そこから強い信念が生まれ、生きる力となるのでしょう。 クリスチャンになる前は、罪の本質が分からず、クリスチャンになった後は、罪に妥協して生きてしまうところがあると思います。ですから、絶えず罪を意識して、悔い改めつつ生きる事は、とても大切だと思います。今日も、イエス様の十字架を見上げつつ、感謝の心で歩んでいきます。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。今日の使徒言行録4章は、聖霊にエネルギーをもらったペテロがイエスの裁判で裏切ったことを罪として自覚し、殺されるのを覚悟に今度はユダヤのリーダーたちの前で、信仰告白をしたことです。宣教は一大決心です。それには信仰告白が大切で、それを推し進めるには自分に聖霊に満たされているという気概が必要です。 もう一つは私たちが何に救われているかを示しています。それはキリスト教が基本的にご利益宗教でないので、魂が救われる必要があります。これは自分だけでは救いは訪れません。自分の罪、咎をその人に赦してもらい、その人に嘘、プライドを捨て、あるがままの自分を委ねることです。それがイエスキリストであると確信を持って分かったから救われたのです。魂が救われるには、その作業が必要ですから、ペテロやヨハネはそれができたのですから、辛いことがあってもイエスに従っていったのでしょうね。私もペテロの心情になりたいと思いました。2023年6月12日 平野信喜
コメント、ありがとうございます。 イエス様は、「もし兄弟に恨まれていることをもいだしたら、祭壇に捧げものを捧げる前に、兄弟と仲直りしなさい。」と教えて下さいました。それは、その人に自分の罪と咎をゆるしてもらうことになるでしょう。また、イエス様にゆるしていただくことにもつながるのでしょう。 魂が救われるには、イエス様に、あるがままをゆだねていくことは、本当に大切な事だと思います。感謝します。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。実は後半の主日礼拝のメッセージを聞いていなかったので、ペンテコステの意味が分からず、もう一度読み返しました。弟子の立場で読むと、自分の人生を変えた恩人のイエスを裏切り、保身のために隠れた罪の意識にさいなんで、これでは人間的に駄目だと思い、イエスの昇天後、危険なのにエルサエムに留まり、大麦の初穂を祝う祭りの日に集う機会を持っていたのです。その際、主に12人の罪を背負った使徒が中心となってが逃げてきた120人の弟子と共に集まって、イエスを賛美したのです。それができたのは120人も罪深き自分達を赦したイエスを讃えたと思うのです。だから、ペンテコステは、罪深い私たちを救ってくださったイエスに感謝して、120人が洗礼として誰にも語ったことのない自分自身の信仰告白をしたのではないのでしょうか。いわば、聖霊に満たされたペンテコステは初めての信徒の信仰告白だったと思われます。 2023年5月23日 平野信喜
コメント、感謝します。ペンテコステの恵みを受けとる前提に、罪の悔い改めがあることは、とても重要な事だと考えます。 神様の恵みを受けて、もう一度、人生をやり直す条件は、一つ、それが「罪の悔い改め」でしょう。 自分の弱さ、いたらなさ、罪深さを示してくださったイエス様に感謝します。そこから生まれる賛美をイエス様はとても喜ばれる事でしょう。
竹腰先生、メッセージありがとうございます。今日は、再臨信仰といつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝するクリスチャンの姿勢を伝えてくれました。再臨信仰はクリスチャンにとって、最期の審判を受ける際に大切と思われますが、それはいつもイエスが来ると言っているものです。私にはイエスが側にいてくれるので、将来の再臨は必要ありません。今、イエスが今おられることが再臨ではないでしょうか。 もう一つはいつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝という姿勢は障がい者になってより強くなりました。障がい者は助けられて生きています。教会に来る信徒さんにはすべて、何らかの形で助けられています。その人の中にも自分に不快か気持ちを抱かせる人もいますが、それでも来てくださることで、自分を助けてくれる人と思い喜んで、きた人に挨拶しています。また足が悪いですから、部屋を移動する際に、転倒する恐れがあり、絶えず、私を守ってくださいと祈ります。いつも感謝は失敗した時です。トイレの排泄、排尿が失敗し、衣服が汚れる時があります。その際、妻に迷惑が掛からないように、自分で始末をしなければなりません。その際、失敗に対して、その場を設定し、始末の場を作ってくれたイエスに感謝するのです。それでも、自分でできない時は妻に手伝ってもらいます。また。外出で足の不自由な自分から、助けを求めることがあります。その際、近くの人に声をかけるのですが、多くの人は手伝ってくれます。この感謝は自分の弱さをさらけ出すことで、相手に委ねる時です。その際、ありがとうと必ず言います。それは、弱さをさらけだすことで、自分の成長を確認できるからです。考えてみますと、この三つの行為は自分の成長につながっていると思っています。 2023年5月14日 平野信喜
コメント、感謝します。 イエス様への感謝、奥様への感謝、また自分の弱さをさらけ出す事から生まれる感謝、日々の生活の中に、感謝があることは、素晴らしいです。今日、いつも喜び、絶えず祈り、全てに感謝しなさいという聖書の教えを心に留めたいと思います。 今日は雨が降っておりますが、天からの恵みの雨にも感謝します。山や川、草花、動物たちも恵みの雨を喜んでいる事でしょう。明日から日曜にかけては、晴れますように。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。お母さまが、致死率が高い誤飲性肺炎になられ、発見が早く良かったですね。喜びましょうね。さて、先生のメッセージは2つあります。一つは再臨信仰です。分かったのは、亡くなった人と同時に生を途絶えさせ生きている人も天国で神に会う信仰なんですね。これが多くのカルト教団の大量虐殺になります。このような再臨信仰は生きる人たちに無縁と思います。信仰は生きることを支えるものですから。 もう一つは多くの日本人のご利益宗教への批判です。菩薩や如来、そして開祖者のブンシンになって、彼らから徳をもらうことです。ゼウスは多くのギリシャ人にとって、自己愛からのブンシンになっていたのです。この徳は魅力的ですが、クリスチャンにとっては純粋ではありません。それは欲におぼれているからです。それに反対するものは、他者愛です。パウロは、それをテサロニケの信徒に説いたと思われます。 2023年5月8日 平野信喜
コメント、感謝します。母の件、早期発見を喜び、感謝します。 確かに再臨信仰を過度にあおる異端問題が世界中であります。それは、初代教会から現代にいたるまで続いている問題です。 再臨信仰により、地上の人生を疎かにするのではなく、地上での利益ばかりを求める心から解放される事を願います。 いつか、すべてを手放す時がきますので、自分の欲におぼれて、生活しないように心がけたいものです。
イースター復活祭おめでとうございます。配信に感謝いたします。
イースター、おめでとうございます。いつも、ご視聴くださり、感謝します。西本様の上にイエス様の喜び、平和、守りがいつもありますように。また、お会いする日を楽しみにしています!
竹腰先生、メッセージありがとうございます。今日のメッセージはイエスが神の子であることを事実として、証明したと思います。イエスは自分の死に際して、今までのように奇跡を起こしたらよいのです。しかし、それをせず、ただ苦しいのに黙って十字架につけられて亡くなりました。これは自分についての死は奇跡をでなく、普通の人間して亡くなったのです。それも、最期に子供が親(神)に苦痛を訴えたように人間として亡くなりました。ただ違うのは、たとえ肉体的、精神的、霊的な苦しみでも耐えて亡くなったことです。これは、人間ではできません。人間ならば痛み、苦痛、孤独を訴えるのです。これらは、人間の象徴であり、罪を現わしています。イエスはここでは人間を超えています。イエスは神、神の子だったのです。そのような、イエスについて行こうと改めて、先生のメッセージを聞いて、思いました。2023年4月6日 平野信喜
コメント、感謝します。 今日のコメントの中では「人間を超えた」という言葉が心にとまりました。 イエス様の十字架の苦しみは、計り知れない苦しみだと思います。私には、耐えられるはずもありません。その心の痛みを、周りの人に、ぶつけて、なんとか自分をたもとうとすることでしょう。十字架の上で、人間を超えられたイエス様にただ、感謝しかありません。
竹腰先生、メッセ―ジありがとうございます。この箇所はイエスを信じ、彼に従うと、良い実を結ぶことだと教えてくれています。それは穢れていないことを絶えず祈り、実践することです。しかし、私たちの現実生活では敵意、争い、嫉み、憤りの醜い実をつけています。これらはすべて、無意識になされます。これをコントロールすることができません。私はこの醜い実を持って生きています。おそらく、殆どの信徒も同様でしよう。そう考えると、剪定されず、そのままでい来ることも必要ではないだしょうか。それは小さくても野ブドウで生きることです。おそらく、罪の意識があったとしても、イエスは私たちを赦して、イエスを木として、つながっていけると思います。私は剪定で取られる人を救いたいのです。イエスも同様と思います。2023年3月31日 平野信喜
コメント、感謝します。野ぶどうのように、生きていく。それが現実なのかも知れません。日々の生活の中では、良い実と、悪い実が混在しています。そんな私たちと共にいてくださるイエス様に、ただ、ただ、感謝します。
竹腰先生、とても大切なメッセージを分かりやすく教えてくれてありがとうございます。私が感銘を受けたのは、「私は道であり、真理であり、命なのです。この重要な御言葉は私を通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません」というフレーズです。旧約の世界では今まで直接にユダヤ人は神との対話で神の指示を受けてきました。神は万能で絶対者です。共に一緒になって私たちと歩む存在ではありません。このみ言葉でイエスが神に代わったのです。それから、旧約の神と異なり、愛と救いと恵のイエスが登場しました。ですから。もちろん旧約の神は大切ですが、それ以上に、神のみ言葉を解釈する決定権はイエスが持っているのです。私はこのみ言葉を信じて、イエスについて行こうと思っています。 2023年3月23日 平野信喜
愛と恵みのイエス様を感謝します。 イエス様が、神の言葉を、私たちに分かりやすく教えてくださった事を感謝します。イエス様の教えは真理です。その教えを知った事が、私の喜びです。これからも、主イエス様と共に歩んでまいりましょう。ハレルヤ。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。今日のメッセージは感銘を受けました。なぜならば、イエスと信徒の関係を牧者と羊に置き換え、永遠の命を得るには、イエスの牧舎に入って、安心できることが分かりました。 ただ残念なのは、私たちである羊がイエスにどのような役割かが分からなかったことです。羊の生態を見ますと、群れを作り、そこから離れるとストレスを感じ、戻っていこうとします。また、臆病で先導された者について行きます。家畜化された羊は日頃、草を食べたり、のんびりと暮らしています。ここでの羊の生態を見ると、何も考えていなく、ただ命を得ているだけの存在なのです。それで羊のような私たちが良いだろうかということです。羊の価値は羊毛を作り、死して、肉になるだけです。よく似ているのが牛です。 牛は人間に愛着関係を持っていて、自分からでも関わりを持ってきます。この関わりは羊の私たちにも必要なのではないでしょうか。2023年3月9日 平野信喜
コメント、感謝します。深い洞察ですね。なるほど、羊たちは、草を食べたり、のんびり過ごしています。それは、良い羊飼いについていく羊の特権だと思います。さらには、イエス様との関係をより深めていきたいものです。 羊の価値は、羊毛を生み出す事、死して、肉になる事。ここから考えられることは、私たちも、価値あるものを生み出す者だという事です。私も、イエス様にとって、また、 周りの人たちにとって、何か価値あるものを生み出していく。そのような存在となりたいものです。 コメント、感謝します。
先生、私の文面を誤解しています。羊は私たちのために目的を持って犠牲になって死ぬことではありません。羊はその状況を生きているだけで、牧者の言いなりで命を終えるのです。羊を私たちと例えると、私たちはそのように無力な存在なのでしょうか。全く違うと思います。 私が言いたいのは、生きる価値は、相手と意図的に関われる心情を持っているかです。牛も燔祭になります。しかし、牛を育ててわかることは、羊と違って牛は相手(飼育者)に愛情がある行為、接触、接近をすることです。私たちはこの行為で、牛が私たちと共に生きる価値のある動物と知ることができます。牛も羊のように飼育舎に入り、そこから飼育者も指示で出ていきます。もし、イエスが牛のような習性を知ったならば、この聖書の文脈は、羊のような無力の存在でなく、イエスと共に生きる私たちになっていたはずです。この牛を私たちとするならば、イエスの生きることの意味と違った解釈になります。動物は地球上、無限にありますが、私たちが持続的に関わる動物(猫、犬、など)に愛情を注げれるのも彼らが何らかの愛情を注いてくれているからです。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。今日はネヘミヤというユダヤ人2世の物語です。彼は身分が安定している職業についているにも拘わらず、エルサレムの悲惨な状況を聞いて断食をするくらい、苦しんだユダヤ教に熱心なひとです。私たちがネヘミアになるには、自分の優雅な地位を捨てる徹底したクリスチャンにならなければなりません。どうしたらネヘミアのようなユダヤ教徒(今日ではクリスチャン)になれるか、次回教えてください。そうでなければ、私たちはネヘミアを英雄の一人として見て、遠い存在に終わってしまいます。 2023年2月23日 平野信喜
ハレルヤ。コメント感謝します。ネヘミヤは、ユダヤ民族の立派なリーダーとなりました。人それぞれ、神様から与えられた使命、とか生き方があると思います。ネヘミヤのようになれずとも、ネヘミヤのような心で、生きていきたいものです。 どうすれば、ネヘミヤのようになれるのか、、、すぐに答えは見つからないかもしれませんが、主の御心を行いたいとい切なるうえ乾きが、必要かと思います。また、隣人への愛の心も必要でしょう。現状に困っている人たちを助けたいという愛の心が芽生えることも、必要な事だと思います。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。今日はハガイが神殿再建の話で主の霊がエズラを通じて、奮い立たせて、再建した話です。バビロン捕囚から70年も経っているので、多くの人はバビロンの生活の慣れて、留まっていました。しかし、神殿再建をしたい人たちはたとえ、時間がたっても、困難があってもエズラに主の霊に奮い立たせて再建の乗り出したのです。その例に先生は平田さんを出しておられますが。公堂建設をなさっているのは先生なのでしょうか。先生に公堂建設に主の霊が奮い立たせているのです。勇気をもってエズラのように信徒さんに伝えてはどうですか。たとえ時間がかかっても、困難があっても、主は答えてくれますよ。2023年2月9日平野信喜
コメント、感謝します。平田社長は、警備会社の社長として、自社ビルを購入しました。その一室を、教会としてささげました。ですから、牧会はしていません。あくまでも、会堂というた建物をおささげしたのです。 東大阪エリムの会堂についても、お伝えする事が出来る時がきましたら、お伝えしたいですね。 励ましをありがとうございます。
竹腰先生、メッセージありがとうございました。今日はエステルを通じて、「神にすべての事が用いられて、最終的に神の国が実現する」の意味である節理のついて教えられました。この節理は王クセルクセスやハマン、モルデカイ,エステルに働いています。その中で自分のやろうとしていることが神の摂理と知ったのはエステルです。だからエステルは自分が殺されても良いと思って王の前に立ったのです。自分が困難であっても、その事態が摂理と受け止め、それに実現する気持ちを持ちたいものです。メッセージありがとうございました。2023年2月1日 平野信喜
コメント、ありがとうございます。エステルは、控えめな女性ですが、芯の強い女性だと思います。私たちにも、色々な困難がありますが、心強く、乗り越えていくことが出来ますように。今週も主の力、守り、支えがありますようお祈りいたします。