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くにもり衆京都🌸ええかげんにしよし
Добавлен 11 май 2023
御霊祭
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生活困窮者がたくさんいるんだから天皇制など廃止した方がいい。その税金を生活困窮者に。
今夜もお疲れ様です。多くの日本人が核アレルギーを克服し、主権を取りもどすことの重要性を自覚してくれることを、強く望みます。日本が核を保有することは、自国を守ることを最優先しているのですね。決して、わが国が他国を威嚇するわけではない。多くの国民がこれを受け入れることも望みます。
つべで、RMCAの年末特番を観ました。高市さんが昨今話題になっている若年層を巻き込んだ闇バイト(特殊詐欺)を取り締まる警官が潜入捜査するのに偽造身分証を作るのを特例として許す法案を肝いりで作っているそうです。 元特捜検事の村上弁護士と、木原事件を告発した佐藤誠元刑事が怒ってました。 「木○誠○を匿うウ○つき露木警察庁長官の売名行為に加担してるだけだし、高市さんが現場の警察官を無視して尊重してもないことがわかる。現場に聞いたらこんな法案絶対作らない。社会経験もない演技もできない真面目な子ばかりの若手警察官を潜入捜査させるなんて命を危険にさらす行為でしかない。そんなことより、県をまたぐ特別捜査部をなぜサッサと作らないんだ?もっと特殊技能を持つ民間人を登用してハッキングに力を入れろ。欧米はとっくの昔に全部やってるのに。」 とここまでストレートではありませんが、意訳するとこんな内容のことを、新年の一番気がかりなこととして取り上げ、怒ってました。 高市さん、ますます怪しいです。こんな体たらくの高市さんを推す山口敬之さんも怪しいです。
1:15:12 犬山市で児童虐待死があった事を知りませんでした。 犬山市は私の生まれ故郷ですが、水野久美さんの出身地でもあります。 1:38:15 歴史を見れば、関税で国産品を守らなければならないのは明らか。 昭和15年前後、世界の70%も生産していた北見ハッカ(ミント)は、自由貿易でブラジル移民によって育てられた輸入北見ハッカに潰された。 「北見ハッカ通商」ホームページの「和種ハッカ」の説明。 昭和15年前後世界の70%も生産するまでになった 皮肉な事に、北見ハッカ栽培の減反のきっかけとなった輸入自由化で持ち込まれたのは、ブラジルへの移民によって育てられた北見ハッカでした。 とある。 「北見ハッカ史」のページには 1954年昭和天皇がハッカ工場の視察に訪れる 1971年ハッカが輸入自由化になる。 1983年ハッカの輸入関税が引き下げられる。北見ハッカ工場が閉鎖。 1985年歴史の継承を基に北見薄荷通商が設立され、ペパーミントオイルの瓶詰めを百貨店など道外市場を中心とした製造販売に乗り出す。 1986年旧薄荷工場がハッカ記念館としてオープンする。
日本には、天皇制があります。日本の場合、家制度の根源は天皇家にあるのです。 家系を保つ戸籍制度がしっかりあるからこそ家系が、尊ばれ万世一系の天皇家が尊ばれるのです。日本は、中国や韓国とは違うのです。 選択的夫婦別姓を絶対に許してはなりません。
↑私の長文コメント、読めますか?
気づいてない人は一つ一つの現象が別個の問題だと思い込んでいるんだと思うんです。 気づいてもらうには問いかけが必要です。 「最近在住外〇人増えすぎじゃない?」 「あそこのコンビニ、肌が浅黒い男性達が夕方になるとたむろしてて怖くない?」 「なんで中学生をレ〇プした外〇人が野放しにされるんだろう。同じ人の犯行なのにまたも不起訴だってよ?」 「不法滞在の外〇人が労働法を守らないで安く同胞を雇って法外いに安い値段で仕事を請け負い日本人の仕事を奪って日本の会社が連結倒産したって。なんで野放しなの?」 「コンビニの店員さんがいつのまにか外〇人ばっかり」 「日本にはニートが80万人いるんだって」 「〇〇さんとこのお子さん引きこもりで〇〇さんお子さんの将来を考えると夜も眠れないって床に伏せってしまったって」 「5080問題ご存知?」 「人材不足のコンビニや工場などで受け入れて引きこもりの社会復帰の場として訓練してくれたら老親はどんなに助かるかわからない」 「留〇生は国が日本語学習も学費も訓練費も生活費をだしてぜーんぶタダなんだって」 「留〇生はひと度一人前になったら恩も忘れて反日発言。それだけじゃなく犯罪率は日本人の数倍。目も当てられない」 「岸田総理の弟や松本人志の岳父は留〇生の受け入れ事業で荒稼ぎした超セレブよ」 「国は引きこもりの社会復帰にお金を出すべきじゃ無い?」 「いじめやパワハラが原因の引きこもりなんて交通事故みたいなものだから私達の子どもや孫が突然引きこもりになる可能性あるのよ。他人事じゃ無いわよ?」 「日本でタダで勉強してタダ飯食って大きくなって賢くなって都合よくルール無視の仕事を請け負って法外なお金を貯めて、そのせいで潰された日本人の店や会社を安く買って、あっちこっちも店長や社長は外〇人になったわ」 「政府おかしい」 「〇〇総理や〇〇大臣、ハニトラだって」 「〇〇市長、反🇯🇵国の帰〇だって」 「〇〇知事の片親反🇯🇵国の在〇だって」 「岩屋大臣、反🇯🇵で大荒れ中の隣国からビザ無し渡航一千万人受け入れだって」 「こんな政府が推してる夫婦別姓て大丈夫なのかな?」 「鬱になったり、引きこもりになったりする人が増えたのなぜかしら?」 「若い人って打たれ弱くない?」 「共働きが急激に増えたわ」 「私達が若い頃は倦厭されてたメンヘラが、マンガやアニメの主要人物になってるのご存知?」 「メンヘラ率が高いのよ」 「その原因てもしかして孤独じゃない?」 「子どもを孤独にする一方の日本はこのままだとまずいことになるんじゃ?」 「つまり岸田さんや経団連はメンヘラの日本の若者より発展途上国から来た外〇人の方が文字通り重宝するってわけでしょ?」 「外〇人はなんであんなに打たれ強いの?」 「彼らの家族の結束力強いわよね」 「日本は急激に核家族になって、共働きになって、そしてメンヘラが増えた」 「そもそもおひとりさまを推奨して晩婚化を招いた東大のベストセラー教授、退官してすぐに結婚したって。共産主義者よ。昔から共働きを推奨したのは共産党よね。立憲の未婚の女性議員の内縁の夫、ほぼ在〇よ。秋篠宮殿下の悪口を配信し続けるSJはそもそも反天の〇産主義者よ。それとおんなじ事を発信している文春ってもしかして?」 「なんで共産主義者の敵であるはずの経団連が共産主義者と同じことを推進してるのかしら?」 「みーんなウ〇つきだったのに、なんでそんな人たちが日本最高峰の大学の教授やってたの?なんで落選しないの?嘘つきだって発覚したのになんで誰も逮捕されないの?」 「やっぱり私達が思ってる以上に日本の中枢はおかしいよ?」 「これって日本だけの現象かしら?」 「ヨーロッパはめちゃくちゃ苦しんで今年移民に反対に転じたわ」 「大統領に返り咲いたトランプさんの勝因ももしかして?」 「トランプさんも今の私達みたいにアメリカの中枢がおかしいって気づいたんじゃ?」 以下、歴史へ
こんばんは。今夜も寒い中、くにもり活動お疲れ様です。媚中・親中政権は、反日政権と同じ意味。石破総理、岩谷外相は典型的な反日勢力。日本を中国に売り飛ばすことを、絶対阻止しなければならない。もちろん、アメリカに我が国を渡すことも、絶対にダメ。日本の独立、主権をとりもどすため自営核武装。そして天皇制の存続を堅守する。
財務省 解体 なんて できやしないだろう !! 見出しが 大げさだ 。
消費税を2倍に上げた晋ちゃんはマレーシアにて、中国排除を騙る程に外交に無知であり恥を晒した。 統一教会と創価学会であり反日反社のクセに保守政党と騙るなかれ。
ありがとうございました♪
今夜もお疲れ様です。極寒のなか、お体ご自愛下さい。
有難うございます。応援して頂き感謝です🙇
こんばんは。お疲れ様です。日本が核をもち、自立独立し主権を取りもどすことを、切に願います。
今晩は。今夜もお疲れ様です。寒い日がこれからも続きます。お体ご自愛下さい。
ヒノキ君は説教調で常に怒ってイライラしてるので。改めたほうがいいかねその辺りは。 それじゃあ反発を買うばかりで共感は得られない。マントマン?とやらを拝見しに来たんですが、通行人も視聴者もいるので特に問題ないでしょう。岩崎さんの穏便に御退散頂こうという意図は先方には伝わってるので、あとは強制退去でいいんでしょうがね。キャー助けて―!痴漢よー!とでも叫べばいいんでしょうが。まあ、スマートに済ませたいのであれば現状でチャット欄か、周囲にでも任せたほうがいいでしょうな現状のように。
京都は私の両親の郷里です。 私も京都に住みたいと 思っています。
岩崎さん 何時もありがとうございます。絶望的な我が日本デスが 私は孫たちの為にも諦めたくないです。
気狂いみたいな野郎が割り込んできたようですが、毅然と対応された岩崎さん、お疲れ様でした。
かなり危ない輩が現れました。 岩崎さん、気を付けて下さい。
19:27 😡
今夜もお疲れ様です。週刊文春、週刊新潮は畏れを知れ!秋篠宮皇嗣殿下の誹謗中傷は絶対許さない。岩崎さん大丈夫ですか。言論の自由を暴言怒声で邪魔され、観ていても非常に不愉快。毅然とした態度の岩崎さんは、立派です。
いつもコメント有難うございます。返信遅くなり失礼いたしました。御心配お掛けして申し訳ありませんでした。彼は心病んでいる感じですが暴力は振るわない感じなのでいつもうけいれていたのですが。御心配お掛けして本当にすみませんでした。御視聴、御心配有難うございます。お互いに護国街宣頑張り続けましょう❣️
俺は元特殊部隊の教官であり即兵力になれるが。 軍隊を核兵器を持とうというお婆さんオバサン達は、戦場の最前線でナニが出来るのかね❔ まさか他人の子供達を戦争に送り込み自分は安全地帯で観戦するだけかね❔ まるで他国で今やる戦争に巨額な血税を費やしながらテレビ観戦している現在と変わらんなぁ。
あなたのいう「軍隊を核兵器を持とうというお婆さんオバサン達」の補給や生産で戦場の最前線が存在し得ると言う程度は当の岩崎氏はご存じだよ。 「他人の子供達を戦争に送り込み自分は安全地帯で観戦するだけかね❔まるで他国で今やる戦争に巨額な血税を費やしながらテレビ観戦している現在」という指摘は後半のお兄さんに指摘したほうがいいいかな。そのお兄さんはせいぜい30代程度の男性だが、私の見る限りじゃ、口達者で逃げまくるだけが能の子ですがね。まあ、情けない男達というより子供のようなのが年齢上だかは大人たち増えたのさ。あなたが本当に特殊部隊の共感ならですがね。 兵だけで軍団や師団が成り立っているわけじゃあないこと程度は分かるだろがね。あなたが本当に即戦力の特殊部隊の共感ならだけどね。ハッタリならそれでもけっこうだが。女に攻撃的に物をいってもあなた自身の底が割れるだけださ。そういう連中は保守気取り、あるいは愛国者気取りの。自称核武装論者の男達の方が多いがね。
元特殊部隊の教官様。 御忙しい中、御視聴御意見下さり、また、貴重な時間を割いてまでご投稿下さり有難うございます。返答遅くなり失礼致しました🙏 教官と言うお立場なら教え子は殺したくない❗と強く思い厳しい訓練をさせてしまいますよね。 確かに何も出来ないオバサン、お婆さんですが、身を分けた子供孫は我が身を割かれるより辛いは、貴方様と同じです。 だから闘わない国造り、戦争を仕掛けられない、核の恫喝を受けない為にはどうしたら良いかと言う戦略を考えるわけです。 失礼ながら貴方様が頑張られても全国民いえ、人工の半分すら優秀な軍人に育てることはできませんよね。 そして貴方様が軍人でいらっしゃるなら『核を持つ國には核は落とされない』『核は脅しの効果こそあれ実際使う兵器ではない』し、今ロシアに迫られてるように『使うのか?使ってしまえ❗』と迫られ核使用国になったら相手の思うつぼ戦闘に勝っても世論で滅ぼされますよね。 貴方様が本当に軍人でいらっしゃるならお分かりのはずですよね。 自衛の為の核武装を水島総社長は開局した20年前から唱えてらしたそうですが、そう言うお考えが有ってのこと。社長もお元気で柔道家でいらっしゃいますが、自分が闘えるから云々などと言う小さな話はなさいません。国を守ると言うスケールの話を常に考えていらっしゃるし、私ごときがおこがましいですが、私達もその影響で國は全体、「日本を取り戻すには…」と言う考えにたっています。 社長は防衛省のキャリアだけじゃなく現場を経験し、防衛省内では疎まれてるかもしれませんが、戦闘をしり、作戦が立てられる本当の将軍達と討論して具体的な作戦を詰めてこの答えを出してます。 闘わせない日本を戦争に巻き込ませないための作戦が常に最強の武器を持つ❗弱い国は、相手国の都合で戦争を仕掛けられる恐怖に怯えて主権や国民をうばわれるのですよ。 だからへな猪口な私でも子孫を戦場に送り込まない、日本を戦場にしない為に声をあげてるのです。 マスゴミの徒花櫻井よしこ女史が仰有ってる無責任な内容との違いを解っていただきたいです。 貴方様が日本と日本人を救いたいお気持ちと私の思いは同じラインに軸脚を置いているとおもいます。 御意見有難うございました。返信遅くなり失礼致しました\(__)
@@とほかみえみため山下白雨-h5g様 御意見有難うございます。同感です😊 日本国民全員が陛下の下心一つに国を守り続けられたら最強ですよね。 何とかの横好きて、せめて京都中の人が同じ思いになってくれますよう頑張ります😊応援有難うございます🦾
@くにもり衆京都ええかげんにしよし 勘違いしているみたいですが、自衛隊や警察の軍隊ごっこなる特殊部隊ではなく、近隣諸国の海賊などと交戦してきているインドネシア海軍 特殊部隊KOPASKAの元教官でして、軍隊は人殺し集団ですので殺人する術を指導してました。 25年程前に、自衛隊や海保 医学部教授等にも高圧生理学を指導してましたが、たかが115mに沈む知床遊覧船にすら潜れないのが自衛隊や海保レベルでして、古き良き軍隊ごっこでしかないと確信しました。 そんな自衛隊や海保であるのが現実なのに、貴女は自分の子供を入隊させたのですか? いくら武装しても食糧自給率11%しかない日本なんて、輸送船を遮断したら半年後には9千万人が餓死ですよ。そんなのは、大東亜戦争の南洋前線での戦死者8割9割りが餓死者であるのでも判るが軍隊の能力ですがね。 日本帝国軍人が戦友の死肉を貪り食うもあれば、人食い人種にヤラれた資料などありますよね。 徳富蘇峰が国民を煽ったが、経済制裁で石油もなく戦争をさせられたが大東亜戦争ですよ。軍拡増税なんざしていれば、米国の軍事産業の為に戦争に、それも最前線に送り込まれるだけです。 反日反社に成り下がる自民党も保守を騙るが、保守とは30年もの衰退を保守する米国ポチだと気付くがいい。
@@くにもり衆京都ええかげんにしよし 勘違いしているみたいですが、自衛隊や警察の軍隊ごっこなる特殊部隊ではなく、近隣諸国の海賊などと交戦してきているインドネシア海軍 特殊部隊KOPASKAの元教官でして、軍隊は人殺し集団ですので殺人する術を指導してました。 25年程前に、自衛隊や海保 医学部教授等にも高圧生理学を指導してましたが、たかが115mに沈む知床遊覧船にすら潜れないのが自衛隊や海保レベルでして、古き良き軍隊ごっこでしかないと確信しました。 そんな自衛隊や海保であるのが現実なのに、貴女は自分の子供を入隊させたのですか? いくら武装しても食糧自給率11%しかない日本なんて、輸送船を遮断したら半年後には9千万人が餓死ですよ。そんなのは、大東亜戦争の南洋前線での戦死者8割9割りが餓死者であるのでも判るが軍隊の能力ですがね。 日本帝国軍人が戦友の死肉を貪り食うもあれば、人食い人種にヤラれた資料などありますよね。 徳富蘇峰が国民を煽ったが、経済制裁で石油もなく戦争をさせられたが大東亜戦争ですよ。軍拡増税なんざしていれば、米国の軍事産業の為に戦争に、それも最前線に送り込まれるだけです。 反日反社に成り下がる自民党も保守を騙るが、保守とは30年もの衰退を保守する米国ポチだと気付くがいいでしょう。
東京の上智大学はイエズス会の大学なんです。卒業生は世界新秩序に沿った言動で多方面で出世していることでも有名です。 イエズス会といえば、フランシスコザビエルらが創立したカトリック系の宣教師集団です。15世紀、イベリア半島からイスラム勢力を追い出すことにやっとこさ成功したスペインとポルトガルは用済みとなった湯田屋人を追放することに決めました。多くの湯田屋人は英国やオランダに移住したのですが、中にはチャンスとばかりにキリスト教に改宗した湯田屋人も多くいました。キリスト教会を隠れ蓑に悪さの限りを尽くして金儲けしてやろうという魂胆です。それがコロンブスであり、イエズス会です。彼らが新天地で何をしたかのか言わずもがな。 日本においても、最早フランシスコザビエル(イエズス会)は侵略者であったことは明白になっているのに、未だ上智大学では聖人扱いしているのは狂気の沙汰です。若者の教育上、極めて有害な大学であるので一刻も早く取り潰した方がいいと私は思っています。 それが証拠に母国スペインでは、フランシスコザビエルは聖人扱いされなくなって久しく、若者の3割知っているかどうかの人物であります。 「イエズス会」はアジアを蹂躙した忌まわしき団体であることは、ヨーロッパにおいても常識となり、欧米の庶民は新世界秩序サイドが重用する人物にはイエズス会系の大学出身者が多いことにも気づいています。 フランスマクロン大統領が「奥さん」の「ブリジット」と出会ったのはイエズス会系の私立高校でした。この学校で「ブリジット」は国語教師をしており、マクロンは生徒でした。この時、マクロンはフランス随一の国語の賞を受賞しています。その後、二人の関係が発覚して激怒したマクロンの両親は遠く離れたパリに移住してマクロンを別の高校に編入させました。つまり、イエズス会の学校でマクロンは、行方不明の姉になりすました弟「ブリジット」に操を捧げ「彼ら」の仲間入りをし将来を約束されたのです。これがカトリックの学校で起き、それを今現在も電波に乗せていちゃついてるのを見せつける彼らは、全カトリック教徒に対する宗教的冒涜では無いでしょうか? 仮面が剥がれた黒い天使であり、昨今ではファウチの実父と認定する向きも多い「マザーテレサ」が「イエズス会に感化されてインドに渡航した」ことは、世界中の英語の教科書に載ってる有名な話です。 上智大学の修士論文の協力ということで、桜井よしこ、ケントギルバート、他、新しい教科書をつくる会のメンバーがインタビューを受け、【日本の保守言論人は歴史修正主義者だ】とする反日映画が作られました。私は桜井よしことケントギルバートはCIAだと思っています。もちろん上智大学もCIAです。上智大学はあからさまに反日工作に加担する団体なのです。 では猪口邦子さんどうでしょうか。彼女は、父親の仕事の関係でブラジルで幼少期を過ごし、大学だけ日本に戻って帰国子女として上智大学外国語学部に入学し、卒業後、アメリカのイェール大学で法律を学び、日本に戻って上智大学の教授になりました。 学長選に挑んで敗れた2005年、安倍さんらの「行き過ぎた少数者・ジェンダーフリーを考える会」に反対意見を出したことを買われ、小泉純一郎に拾われて衆院選に当選。安倍さん達とバチバチと火花を散らしたのですが、猪口邦子さんは、男女差別に敏感なだけで、他のことは極めて保守的だった様です。正体がバレてからは参議員に鞍替えし麻生派に移りました。 このことは「彼ら」からすれば、裏切りでしか無い。先の自民党総裁選では、第1回投票では上川さんに、第2回投票では麻生さんから高市に入れろと檄が飛び、女性総理大臣を待望する猪口さんとしても高市さんを推すと口にしていたそうですが、危険を察知したのか、結局は石破茂に投票したそうです。 にも関わらず、不審な火事で最愛の夫と障碍のある娘さんを亡くして、痛ましいことこの上ありません。 追い討ちをかけるようにCIAのプロパガンダ機関である日テレミヤネ屋がベランダで逃げ惑う娘さんの映像を全国放送で垂れ流しました。政治家だけでなく日本国民全員に対する見せしめにされたのです。 「彼ら」に小手先は通用しない。安倍さんが公衆の面前で暗○されたということは、安倍さんが生きるモデルにしていた李登輝が成功した「面従腹背」も通用しない。であるならば、アルゼンチンの大統領の様に、全てを白日の下に晒すしか無い。政治家は一刻も早く腹をくくって欲しい。 ※麻生さんの資産の旧吉田茂邸も2017年消失しています(今は復元済)。 ※日テレ旧社屋は上智大学の目と鼻の先に建ってました。(現在は電通の斜向かい)
りせ様 お詳しくていらっしゃるのですね♪素晴らしい。情報有難うございます。
岩﨑様、平井様、街宣お疲れ様でございました。 夫婦別姓と言えば中国や韓国がその様ですね、入籍する方もいらっしゃる様ですが、基本男尊女卑の国柄の様です。 結婚生活をし子供を産むのに、ほぼお母さんだけが一族に入れて貰えてないようで私個人からしたら不憫に感じます。 子供もなぜお母さんだけ同じ姓じゃないの?って思わないのでしょうか。 日本の戸籍制度は素晴らしいです、ルーツをたどれますから。 結婚って基本的にお互いに想い合ってするものだと思います、私は主人の姓になって嬉しかったです。 実際夫婦別姓を望む人は、ちょっと変わった人だと思いますけど制度化されるとどうなんでしょう? 取り止めのない事を書きました、失礼いたしました。
@@里美-u8tコメント 様有難うございます。仰有る通り儒教思想で男尊女卑の国がまた、逆手に取って男系継承の日本を男尊女卑て言う異常さ。 韓国の子供は母をバカにしてると言う噂もあります。学習しない日本のエリートが日本を滅ぼすのは本当ですね。
@里見-u8t 様 昨日は長時間にわたり視聴いただきありがとうございます。家族法についての大転換は現在平穏に暮らしている人達をもトラブルに巻き込みかねません。経済問題や投薬問題等はあとから施策大転換できますが家族法だけは一度の変更で大混乱が想定されますし後戻りができません。そして皇統の問題ですね。ここを考えればこの問題が最優先されないのが保守の中でももどかしいところです。まぁなかなか皇統の問題を言っても関心がない方々には響かないでしょうから実害が出るという観点から反対派を増やすためにともに尽力してまいりましょう!
@@ch-gp6bi 様 こんにちは、お疲れ様です。 おっしゃる通りだと思います。 他国は、日本に脈々と続くご皇室が羨ましく、潰したいのでしょうね。 その手始めが夫婦別姓論だと思います。 天皇陛下は祭祀をなさるのが基本ですが、実際色々な地域にお出まされる時は、一般の方々はとても歓迎されておられますね。 ご皇室の存在、陛下がいらっしゃる限り日本人はひとつになれると思います(甘いでしょうか?) とにかく夫婦別姓は百害あって一利なしですね。 お返事ありがとうございました。
ATM日本になったは、中曽根康弘の国鉄民営化からである。
斉藤元彦さん、利権を売国維新に付け替えるだけですよねぇ。なぜ当選するのか。農家を苦しめる自民党に、農家が投票するんだから、斉藤元彦さんが当選しても不思議ではありません。日本人を目覚めさせるには、死ぬ気で訴えるしかない。岩崎さんは必死に訴えてます、頑張って下さい。
😮京都 国守岩崎典子先生こんばんは今夜もよろしくお願いします😮
岩崎さん🥭こんばんは🥭公明党の夫婦別姓は許されません🥭🇯🇵日本国に公明党いりません🥭解体するべきです💐経団連も解体するべきです💐
今晩は。冷たい雨のなかお疲れ様です。夫婦別姓は、戸籍の廃止。男系男子の天皇性、皇統の破壊に繋がる許してはならない制度です。どうして日本独自の伝統文化を蔑ろにするのでしょう。悔しくてなりません。
政府やワクチンを信用してる人にどうやって現状を理解して貰えるか、説明だけでなく気分的にも難しいですが、頑張って下さい。ご苦労様です。
とても興味深い対談でした✨毎週配信してほしいくらい☺️ 子ども家庭庁の予算6兆円は、その年に生まれた家庭に配るとひと家庭900万円配れるそうです。なんの役にも立たない金食い虫の子ども家庭庁、要りませんね。 どういう理由か知りませんが、子どもを生まなかった三原じゅん子さん、自分は国がどうしてくれたら産んでいたのか反映できるポストに奇跡的に着いたのですからちゃんと結果を出してくれなきゃ嘘ですよね。三原さん、早く青写真を発表しでください。
@@りせ-n6t嬉しいコメント 有難うございます。相談の上考えてみます😃 デジタル庁、環境省、宮内庁さえ単なる天下り先と思える怠慢さ。りせさんが仰有る通り省庁なくして、直に国民に現金給付して貰った方が脱デフレでV字回復できますよね~👍️
こんばんは。お疲れ様です。日本のテレビ局は、日本を主語にしていませんね。ユーチューブ動画『新レインボーマン』では、NHKのことを(プロパガンダ魔人MHK)と表現。事実を捏造して報道する、情報発信局機関と。また、戦後、日本テレビを作った正力 松太郎は、アメリカのスパイCIAと言われていますね。
街宣活動を邪魔する謎の男。初めて見ました。極左でしょうか。酷い活動家。自分が言いたいことがあるなら、他の所でやれよ。
ヤマトタケシ 今晩は。今夜も雨のなかお疲れ様です。風邪にかからないように祈っています。
いつも有難うございます。感謝致します
稲垣氏は伊藤、水島両氏を読み違えているー3 ・貴族制 (きぞくせい、アリストクラシー)は、少数の特権的な貴族が支配階級となる政治体制のこと[1]。対比語は民主主義(デモクラシー、多数者支配)など。 語源 “aristocracy(アリストクラシー)”の語源は古典ギリシア語の“aristo”(最上の)と“cratia”(支配)を組み合わせた言葉で、“優れた者による支配”(rule of the best)を意味する[2]。古代ギリシアのアテナイでは「アリスト(ス)」という言葉は軍の先頭に立って剣を抜く若い市民に対しての表現であったが、その後の世襲化し特権階級化した貴族にも使用されるようになった。 概要 貴族とは「最上の」人々を指す用語であり、その社会や文化で「高貴、上位、優秀」などと認識されている階層や階級である。貴族制は多くの場合は世襲によるが、成果を上げた政治家や軍人などを採用するなど、その内容は社会や文化によっても異なる。 貴族は、世襲の金権政治(富豪政治、plutocracy)階級をさすことが最も多かった(富や財力を持つことは、最上さ、高貴さを見せ付けることができる余裕があるからである)。 ただし、貴族制の歴史の重みと「高貴なる義務(ノブレス・オブリージュ、noblesse oblige)」は、貴族層に対し、少なくとも建前の上では高い志からの行動を要求していた。 プラトンは「哲人王」と黄金の魂を持つ支配者階級の統治によるアリストクラティアこそが理想の政治体制だと説いた。ただし哲人王は最上の知識と知恵を兼ね備えた哲人であることが求められ、階級も生まれた後に能力によって上下することが可能なため、今日的な語用では貴族政治というよりはメリトクラシー(能力による支配)やテクノクラシー(科学者・技術者による支配)に近い。 ・陶片追放 (とうへんついほう、ギリシア語: ὀστρακισμός、オストラキスモス)は、古代アテナイで、僭主の出現を防ぐために、市民が僭主になる恐れのある人物を投票により国外追放にした制度。英語のオストラシズム (ostracism) という名称でも知られる。広義には集落や集団からの追放を指し、日本の村八分と近いものと解釈される[1][2]。 沿革 アテナイにおいて僭主ヒッピアスを追放したあと、クレイステネスが紀元前508年ごろに定めたのが定説とされるが、最初に実施された前487年ごろに新規導入されたという説も根強い。 僭主登場を防止するためというのが教科書的な解釈であるが、近年では貴族たちの激しい抗争を平和的に解決するための手段だったとする説が有力になりつつある。前古典期のアテナイ史は貴族達の集団亡命とクーデターの連続であり、ライバルの一族郎党をアテナイから排除して実権を握った貴族は、国外で力を蓄えて復讐に燃えるライバルに再び追い落とされるという権力闘争があとを絶たなかった。こうした状況に終止符を打つため、一族全員の追放ではなく一人だけを追放に処すという緩やかな方式で、集団亡命とクーデターの憎しみの連鎖を断ち切ろうとしたのが陶片追放だった。 しかし、しばしば政争の道具として使われて有能な政治家などが追放されることもあり、たとえばペルシア戦争におけるサラミスの海戦で活躍したテミストクレスも後に陶片追放によってその地位を追われている。そのため、陶片追放に古代アテナイが衰退する一因を見いだす見解もあるが、立法目的に照らせば、貴族たちの激しい政争を防いで民主制の安定に貢献したといえる。ともあれ、理性的な弾劾裁判制度が整備されるにしたがって弊害だけが目立つようになり、前5世紀末には廃れた。対比列伝には「候補者の事は何も知らないが、皆が騒いでいて気に入らないので陶片を投じる」などといった濫用例が記されている。 ・哲人政治 プラトンの著作『国家』で述べられている、見識が高く道理に通じた少数の哲人によって行われる政治形態です。衆愚政治に代わる理想の政治形態として考えられています。 プラトンは、哲学と政治を両立させる「哲人政治」を提案しました。哲学は真理を探究するもので、政治は実際の駆け引きが必要なため、哲学者と政治家という役割は正反対の素質の伸ばし方と言えます。そのため、哲学と政治を合体させることで、人類の不幸を終わらせることができると考えました。 プラトンは、独裁専制や金権政治、寡頭政治、民主政治、借主政治などを激しく非難しています。これらの政治形態はすべて正義を無視して行われた独裁専制であったと見なしていました。プラトンは、ソクラテスから受け継いだ考え方を発展させ、イデア論や理想国家論を構築しました。プラトンの哲学は理想主義の哲学といわれ、イデアとは理想そのものを意味します。
稲垣氏は伊藤、水島両氏を読み違えているー2 コメント返信機能していないので。こちらに続きを書く。稲垣氏は伊藤と水島氏をも読み違えている。伊藤は哲人政治といって、のちに護民官階級と指摘したがギリシア、ローマの混同がみられる。だが、平民階級のうちの優れた人間が政治を行うという指摘では真っ当であり草莽崛起の理念と変わらない。問題は、優れた平民の質による。民主主義も衆愚化、あるいは僭主制になる。ローマは共和制を経て帝政に移行したがあれは実質大統領制でもある。ローマ皇帝を祭祀をも執り行っていたが。そちらは煩瑣になるので省く。 ・グラックス兄弟 (グラックスきょうだい)は、古代ローマのセンプロニウス氏族グラックス家に生まれた兄弟、ティベリウス・センプロニウス・グラックスとガイウス・センプロニウス・グラックスの2人を指す。 共和政ローマ末期、戦争が続き社会的な疲弊を感じたティベリウスは、紀元前133年に護民官となりローマの改革に着手するものの、元老院の反発に遭い暗殺される。紀元前123年には弟のガイウスが護民官に就任して改革を再開するが、兄よりも広範囲に急激な改革を目指したため抵抗が強く、紀元前121年に反対派によって自殺に追い込まれた。2人の死後、グラックス派は一掃され、矛盾と対立に満ちた「内乱の一世紀」へと向かうことになる[1]。 ・寡頭制 (かとうせい、寡頭政治、希: ὀλῐγ-αρχία)とは、国を支配する権力が少数の人や政党、つまり寡頭に握られる政治体制のことを指す。 寡頭の権力はその「数」と緊密的に繋がり、寡頭の総数が多ければ多いほど、各寡頭の権力は小さくなる[1][2][3]。団体独裁とも言い、権力者が2名の場合は二頭政治、3名の場合は三頭政治、4名の場合はテトラルキアとも言う。少数側の寡頭が支配層になるため、独裁制の一種とみなされる。対比語は民主制や多頭制など、いわゆる多数側の国民が支配層になる制度。 ほとんどの場合には、寡頭は国家の表に顕われることが無く、政府の裏側で暗躍しながら君主制・共和制・議会制・民主制などの皮をかぶって政治を行う[4]。寡頭の存在を支持する社会ダーウィン主義やポピュリズムなどの理論によれば「どんな制度でも最終的に寡頭制になってしまい、それは独裁制であろうとも民主制であろうとも関係ない。独裁制の場合には数人のみで国を支配し、民主制の場合には二大政党のみで国を支配する」と主張している[5]。 語源 権力を握っている少数の人々は、財産・軍事力・家系・人脈・冷酷さ、あるいは政治的影響力の面で優越していることが多い。「oligarchy(寡頭制)」という言葉はもともとギリシア語で、「oligo(少数)」と「arkhos(支配)」から成る(オリガルヒの語源でもある)。 少数の力のある家系が政権を支配し、その子供たちが政権の後継者になるよう育てられ、訓練される、ということが寡頭制ではよく見られる。貴族制(語源的には「最上の者による支配」)とは異なり、こうした権力は公開的には行使されず、支配者は「影の権力」にとどまることを好み、経済的手段で支配を行う。アリストテレスはこの用語を、「豊かな者による支配」と同義語として使用したが、寡頭制は富裕な者の支配による必要はなく、単に特権を持った集団による支配であればよい(正確には、豊かな者による支配は、「金権政治 (plutocracy)」の用語が使用される)。 寡頭制の発生 寡頭制による国家制度は、王政ローマや共和政ローマにおける元老院が有名である。 互いに戦う部族の族長たちが次第に連合を組むことで、社会は自然と寡頭制的になってゆく。またあらゆる政体の政府はその成長の過程で寡頭制に変化してゆくことがある。もっともありうる寡頭制への変化のメカニズムは、外部からのチェックを受けない経済的な力が次第に集積してゆくことによるものだろう。ポリュビオスほか多くのギリシアの思想家は、貴族制が堕落することで寡頭制になると考えていた。寡頭制は、少数支配する家系のうちの一家が他の家族に対して優越的な力をもつ結果、より古典的な権威主義的政体へと変化してゆくこともある。ヨーロッパの中世後期に成立した君主の多くはこのように成立した。 ・アテナイ アカイア人分派のイオニア人がアッティカ地方に定住したのは紀元前2000年ごろと推定され、紀元前1200年ごろから紀元前1100年ごろにかけてドーリス人の侵入をうけ周辺村落は次々と征服された。アテナイは、これを凌いで続く暗黒時代を通して王政(英語版)を維持しつつ存続した(もっとも、当時のアテナイは経済的に未熟で土地も肥沃ではないため、ドーリス人が攻略する価値を見出せなかった)。このころ代々の王家に代わって、移住者の子孫であるピュロス王家が成立する。 アテナイは立地条件を生かし、エーゲ海や黒海での海上交易を中心に、交易都市として発展していく。ソロンの改革によって経済的に活性化され、主に陶器の輸出や穀物や織物の輸入などが扱われていく。また、アイギナとコリントスの経済を巡る覇権争いでは、当初はアイギナ側に立ったが後にコリントス側に移ってその優位を助け、後にコリントスが衰退の気配を見せると並び立った。この動きに拍車をかけたのはラウリオン銀山(古希: Λαύριον, 古代ギリシア語ラテン翻字: Laurion)の存在である。その発掘の歴史はカルタゴのイベリア開発等と比べ遅れるものの、ギリシア世界では殆どとれなかった銀を唯一大量にとれる同銀山の本格的な採掘が開始されると、短期間のうちにその豊富な資金でアイギナ・コリントスに並ぶ存在となり、やがてギリシャ地方有数の都市となった。
コメント戴いて有難うございます。難し過ぎて解りません。稲垣さんは伊藤さんと社長をどんな風に読み違えているのでしょう⁉️平易な表現で御願いします。
稲垣氏は伊藤、水島両氏を読み違えているー1 こちらに書きますがね、岩崎さん。どうも稲垣氏は完全に伊藤貫氏を読み違えているので。訂正されたほうがいい。そもそも伊藤貫氏の指摘もいい加減なので。そちらも訂正がいる。 稲垣氏はなんでまあ、ああもヒガミっぽいののかという気もしますが。そもそも、塩野七生を引き合いに出していたが読み込めていない。あるいはうろ覚えであると思われる。以下は、文体を変えるので。御諒承あれ。 ・伊藤は護民官階級と指摘したが、あれは貴族と平民の間で国家の動きが鈍ったローマで現実化して「護民官」なる制度が成立して以降のことでで。ギリシャのアテネもプラトンもあまり関係はない。 平民の中で優れたものが、護民官を経て元老院議員になったりする制度でもある。市民、平民のなかで突出した優れた者が護民官になり貴族階級と均衡を取る為のものである。貴族の横暴、あるいは特権階級に固定された人々の、腐敗堕落を抑止するものでもあった。断じて「草莽崛起」の意図をバカにしているものでもない理由は伊藤の終盤の発言内容をみれば明らかだ。ローマにはパトローネス(庇護するほう)とクリエンテス(支持するほう)というのがあり、この言い方は日本でいう義理人情に近い。パトローネスはいわゆる「エリート」ではない。これが、「パトロン」の語源となり「クライアント」の語源ともなっている。ちなみに、伊藤は「エクイタス」=「騎士階級」の指摘もしているが。稲垣氏の指摘では「ローマンスピリット」は貴族にはない。と言っているかのように聞こえるのでまったくナンセンスである。ローマが衰退した理由はコンスタンティヌス帝の支配の為のキリスト教の国教化であり、帝国全土にローマ市民権を与えたカラカラ帝以後の話しである。仔細な言い方は煩瑣になるので。以下は、他人の筆で代用する。 ・クリエンテス (clientes)とは、「被保護者」を指すラテン語であるが、特に古代ローマでのパトロヌス (patronus)と対になる存在である。単数形はクリエンス(cliens)。訳語では被護者、被庇護者、被保護者などが使われる。英語のクライアントの語源となるが、現在の意味とは大幅に異なる。 概要 クリエンテスはパトロヌスとの私的な庇護関係(クリエンテラとパトロキニウム)における被保護者を指すが、一方向な保護者と被保護者の関係ではない。パトロヌスはその地位などを利用してクリエンテスに様々な便宜を図る。一方クリエンテスもパトロヌスに対して選挙運動など様々な助力をする義務を負う相互扶助関係である。 ・パトロヌス (patronus)には、次のような意味があります。 ラテン語で「父のような人」を意味する言葉で、守護者を意味する 古代ローマ社会における保護する者(パトロヌス)と保護される者(クリエンテス)の関係を指す言葉パトロヌスは、ラテン語のパテル(pater:父)が語源で、信頼できる人たちと共に過ごすことを意味します。古代ローマ社会では、血縁関係のほかに道義的な人間関係が存在していました。パトロヌスとクリエンテスは、疑似家族のような強い結びつきで結ばれており、この関係を裏切ることは許されませんでした。たとえば、当時の政治家カエサルはガリア(今のフランス)のパトロヌスで、ガリアの市民はクリエンテスでした。 ・護民官(ごみんかん)古代ローマ共和制時代に平民の身や財産を守っていた官職です。貴族と平民の間に立ち、平民の利益を擁護するために設置されました。 護民官には、次のような特徴があります。 平民会から選出され、任期は1年でした。 元老院の議決やコンスル(執政官)の執行に対して拒否権を持っていました。 平民会を召集する権限を持っていました。 身は神聖不可侵とされており、不敬を加えると厳刑に処せられました。 護民官が設置されたきっかけは、BC494年に貴族と平民の生活格差が大きくなったことを受けて、平民たちが山にこもってストライキを行った聖山事件です。 ・騎士/エクイテス 古代ローマ共和制時代末期に登場した、従来の貴族・新貴族からなる元老院議員層に対し、徴税請負人などとなって富を蓄えた新興富裕層を騎士(エクイテス)といった。彼らは平民派の基盤となり、さらにローマ帝政の元首政を支える存在となった。 ローマ共和政の時代に、前3世紀末ごろからあらわれた富裕市民層を、元老院議員などの地位を独占していた貴族(パトリキ)と区別して騎士(エクイテス)といった。本来は騎馬で軍務に従事する兵士を意味しており、馬を養うことのできる富裕者であったことから、重装歩兵である平民に対して貴族を意味していたが、前3世紀末に元老院議員となる層と区別され、その下層に位置づけられる層を意味するようになった。 徴税請負人として富を築く 彼らは従来の貴族と、前4世紀ごろから登場した新貴族(ノビレス)が元老院議員として既得権を持っていたのに対して、前3世紀のポエニ戦争によって増加しはじめた属州の徴税請負人となったり、商業に従事したりしながら富を蓄え、騎士階級を形成させた。 元老院議員身分と騎士身分 ローマ共和政末期の前3世紀の終わりごろ、従来の元老院議員(このころはノビレスがその多数を占めていた)に次ぐ支配階級として騎士身分(階級とも言える)が成立した。その前提は、前218年の法律で、元老院議員及びその息子は商業に従事することが禁止されたことである。そのため騎兵に登録されながら元老院議員になれないでいた層の者が、商業の分野に進出するようになった。彼らはその富をもとに属州総督(彼らは元老院議員身分に属していた)に代わって徴税請負人となり、徴税や公共事業を請け負い、さらに富を蓄えるようになった。ただし、元老院議員と騎士身分はそれぞれ総督と徴税請負人として属州を収奪し、その富を分け合ったという点では同じ支配者層に属しており、階級的利害関係で対立する関係ではない。 徴税を請負制にした理由 属州の徴税や公共事業という国家事業を請負制にしなければならなかったのは、都市国家であったローマは市民が交替で行政にあたる原則だったので職業的な官僚は存在しなかったためである。官僚制をもたないローマが広大な属州を獲得していったとき、その統治は経済的に力のある有力者に請負ってもうらうことが必要だった。つまり、都市共同体国家から、領域的国家に転化した矛盾から生まれたのが、徴税請負制度であり、その制度に乗じて急成長したのが騎士身分(階級)だった。 平民派の基盤 彼らは共和政末期には民会を拠点とした党派の平民派の支持基盤となり、元老院を拠点とした閥族派と対立するようになった。彼らの存在は、前1世紀の内乱の1世紀の過程で重要性を持つようになり、初代皇帝アウグストゥス以来のローマ帝国の皇帝の元首政の統治も騎士階級を基盤とし、彼らから役人や軍人に登用されるものが多かった。 注意 古代ローマの騎士と中世の騎士の区別 古代ローマの「騎士=エクイテス」は騎馬の兵士という軍事的な本来の意味は無くなっており、一つの政治的階級を意味していた存在であり、中世ヨーロッパの騎士の概念とは違うので注意を要する。中世の騎士(英語でKnight、独語でRitter、仏語でChevalier)は封建領主層が騎乗戦士として主従関係を結び、上級者から爵位を授けられた身分を意味している。
有難うございました🌞
何時も応援有難うございます。
長時間、有難うございました🌞
どうしても皆様に伝えたいこと。河合ゆうすけ 【1st】河合ゆうすけの政治塾 2024/10/14
日本のノーベル平和賞、DSは巧いとこ突いてきます。それでも『愛と平和の核武装』を謳いましょう❗
先日のチャンネル桜討論における、水島総氏と矢野義昭の見解について。矢野氏並びに自衛隊元幹部ならびに、元自衛隊員、現自衛隊員の矜持の立場から。 矢野 義昭 (やの よしあき、1950年(昭和25年)1月5日 - )は、日本の陸上自衛官、研究者。拓殖大学・岐阜女子大学客員教授。学位は博士(安全保障)(拓殖大学・2013年)。最終階級は陸将補[2]。 来歴 大阪府の出身で、大阪市立堀江中学校、大阪府立大手前高等学校を経て、1972年(昭和47年)に京都大学工学部機械工学科を卒業すると京都大学文学部中国哲学史学科へ学士入学して1974年(昭和49年)[2]に卒業する。2013年(平成25年)7月に拓殖大学で博士(安全保障)を修得する。 京都大学卒業後に陸上自衛隊へ一般幹部候補生として入隊し、第6普通科連隊長、兵庫地方連絡部長、第1師団副師団長兼練馬駐屯地司令などを務め、2006年(平成18年)12月に陸上自衛隊小平学校副校長[3]から退官する。 2010年(平成22年)の第22回参議院議員通常選挙で、民主党公認を得て比例区に立候補するも党内41位の得票数18,608で落選する。2016年(平成28年)の第24回参議院議員通常選挙で、おおさか維新の会公認を得て比例区に立候補するも党内14位の得票数11,983で落選[4][5]する。現在、岐阜女子大学と拓殖大学で客員教授、日本安全保障・危機管理学会顧問[1]、「国家生存戦略研究会」会長[6]をそれぞれ務める 2022年(令和4年)9月27日の故安倍晋三国葬儀に賛意を表し、岡島実や高池勝彦らとともに発起人[7]に名を連ねた。
そもそも、元自衛隊幹部、並びに自衛隊教官を務めた矢野氏が矢野氏の教え子でもあり、後輩たる自衛隊員に、天皇の赤子たる国民の尊崇、畏敬、敬愛する大日本帝国軍の後輩たる自衛隊員ならびに、先輩たる大日本帝国軍人を、天皇と国民のための軍隊だったと指摘するのは当然である。無論、勝新太郎の「兵隊ヤクザ」に出てくるような例外もあるが。事実、円明園、シベリア出兵、現自衛隊員も、現地住民の敬愛と尊敬を受けるなどで、十分に国家に貢献はしている。先進諸国に比してまた水準以上の練度とモラル規律の遵守されていたのも事実ではある。 ・軍人勅諭(陸海軍軍人に賜はりたる勅諭,軍人訓誡ノ勅諭) 陸海軍軍人に賜はりたる勅諭(軍人勅諭) 我國の軍隊󠄁は世々天皇の統率󠄁し給ふ所󠄁にそある昔神󠄀武天皇躬つから大伴󠄁物部の兵ともを率󠄁ゐ中國のまつろはぬものともを討ち平󠄁け給ひ高御座に即かせられて天下しろしめし給ひしより二千五百有餘年を經ぬ此間世の樣の移り換るに隨ひて兵制の沿󠄂革も亦屢なりき古は天皇躬つから軍隊󠄁を率󠄁ゐ給ふ御制にて時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと大凡兵權を臣下に委ね給ふことはなかりき中世に至りて文武の制度皆唐國風に傚はせ給ひ六衞府を置き左右馬寮を建て防人なと設けられしかは兵制は整ひたれとも打續ける昇平󠄁に狃れて朝󠄁󠄁󠄁廷の政務も漸文弱󠄁󠄁に流れけれは兵農おのつから二に分󠄁れ古の徵兵はいつとなく壯兵の姿󠄁に變り遂に武士となり兵馬の權は一向に其武士ともの棟梁たる者󠄁に歸し世の亂と共に政治の大權も亦其手に落ち凡七百年の閒武家の政治とはなりぬ世の樣の移り換りて斯なれるは人力もて挽回すへきにあらすとはいひなから且は我國體に戾り且は我祖󠄁宗の御制に背き奉り淺閒しき次󠄁第なりき降りて弘化嘉永の頃より德川の幕府其政衰へ剩外國の事とも起󠄁りて其侮󠄁をも受けぬへき勢に迫󠄁りけれは朕󠄂か皇祖󠄁仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟を惱し給ひしこそ忝くも又惶けれ然るに朕󠄂幼くして天津日嗣を受けし初征夷大將軍其政權を返󠄁上し大名小名其版籍󠄁を奉還󠄁し年を經すして海內一統の世となり古の制度に復しぬ是文武の忠臣良弼ありて朕󠄂を輔翼󠄂せる功績なり歷世祖󠄁宗の專蒼生を憐み給ひし御遺󠄁澤なりといへとも倂我臣民の其心に順逆󠄁の理を辨へ大義の重きを知れるか故にこそあれされは此時に於て兵制を更め我國の光を耀󠄁さんと思ひ此十五年か程󠄁に陸海軍の制をは今の樣に建定めぬ夫兵馬の大權は朕󠄂か統ふる所󠄁なれは其司々をこそ臣下には任すなれ其大綱は朕󠄂親之を攬り肯て臣下に委ぬへきものにあらす子々孫々に至るまて篤く斯旨を傳へ天子は文武の大權を掌握するの義を存して再中世以降の如き失體なからんことを望󠄂むなり朕󠄂は汝等軍人の大元帥なるそされは朕󠄂は汝等を股肱と賴み汝等は朕󠄂を頭首と仰きてそ其親は特に深かるへき朕󠄂か國家を保護して上天の惠に應し祖󠄁宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも汝等軍人か其職を盡すと盡さゝるとに由るそかし我國の稜威振はさることあらは汝等能く朕󠄂と其憂を共にせよ我武維揚りて其榮を耀󠄁さは朕󠄂汝等と其譽を偕にすへし汝等皆其職を守り朕󠄂と一心になりて力を國家の保護に盡さは我國の蒼生は永く太平󠄁の福󠄁を受け我國の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし朕󠄂斯も深く汝等軍人に望󠄂むなれは猶󠄁訓諭󠄀すへき事こそあれいてや之を左に述󠄁へむ 一 軍人は忠節󠄂を盡すを本分󠄁とすへし凡生を我國に禀くるもの誰かは國に報ゆるの心なかるへき况して軍人たらん者󠄁は此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす軍人にして報國の心堅固ならさるは如何程󠄁技藝に熟し學術󠄁に長するも猶󠄁偶人にひとしかるへし其隊󠄁伍も整ひ節󠄂制も正くとも忠節󠄂を存せさる軍隊󠄁は事に臨みて烏合の衆に同かるへし抑國家を保護し國權を維持するは兵力に在れは兵力の消󠄁長は是國運の盛衰なることを辨へ世論に惑はす政治に拘らす只々一途󠄁に己か本分󠄁の忠節󠄂を守り義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも輕しと覺悟せよ其操を破りて不覺を取り汚名を受くるなかれ 一 軍人は禮儀を正くすへし凡軍人には上元帥より下一卒に至るまて其閒に官職の階級ありて統屬するのみならす同列同級とても停年に新舊あれは新任の者󠄁は舊任のものに服從すへきものそ下級のものは上官の命を承ること實は直に朕󠄂か命を承る義なりと心得よ己か隸屬する所󠄁にあらすとも上級の者󠄁は勿論停年の己より舊きものに對しては總へて敬禮を盡すへし又上級の者󠄁は下級のものに向ひ聊も輕侮󠄁驕傲の振舞あるへからす公󠄁務の爲に威嚴を主󠄁とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を專一と心掛け上下一致して王事に勤勞せよ若軍人たるものにして禮儀を紊り上を敬はす下を惠ますして一致の和諧を失ひたらんには啻に軍隊󠄁の蠧毒たるのみかは國家の爲にもゆるし難󠄀き罪人なるへし 一 軍人は武勇󠄁を尙ふへし夫武勇󠄁は我國にては古よりいとも貴へる所󠄁なれは我國の臣民たらんもの武勇󠄁なくては叶ふまし况して軍人は戰に臨み敵に當るの職なれは片時も武勇󠄁を忘󠄁れてよかるへきかさはあれ武勇󠄁には大勇󠄁あり小勇󠄁ありて同からす血氣にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇󠄁とは謂ひ難󠄀し軍人たらむものは常に能く義理を辨へ能く膽力を練󠄀り思慮を殫して事を謀るへし小敵たりとも侮󠄁らす大敵たりとも懼れす己か武職を盡さむこそ誠󠄁の大勇󠄁にはあれされは武勇󠄁を尙ふものは常々人に接るには溫和を第一とし諸󠄀人の愛敬を得むと心掛けよ由なき勇󠄁を好みて猛威を振ひたらは果は世人も忌嫌ひて豺狼なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ 一 軍人は信義を重んすへし凡信義を守ること常の道󠄁にはあれとわきて軍人は信義なくては一日も隊󠄁伍の中に交りてあらんこと難󠄀かるへし信とは己か言を踐行ひ義とは己か分󠄁を盡すをいふなりされは信義を盡さむと思はゝ始より其事の成󠄁し得へきか得へからさるかを審に思考すへし朧氣なる事を假初に諾ひてよしなき關係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進󠄁退󠄁谷りて身の措き所󠄁に苦むことあり悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆󠄁を辨へ理非を考へ其言は所󠄁詮踐むへからすと知り其義はとても守るへからすと悟りなは速󠄁に止るこそよけれ古より或は小節󠄂の信義を立てんとて大綱の順逆󠄁を誤󠄁り或は公󠄁道󠄁の理非に踏迷󠄁ひて私情󠄁の信義を守りあたら英雄豪傑ともか禍󠄀に遭󠄁ひ身を滅し屍の上の汚名を後世まて遺󠄁せること其例尠からぬものを深く警めてやはあるへき 一 軍人は質素を旨とすへし凡質素を旨とせされは文弱󠄁󠄁に流れ輕薄󠄁に趨り驕奢華靡の風を好み遂には貪汚に陷りて志も無下に賤くなり節󠄂操も武勇󠄁も其甲斐なく世人に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり此風一たひ軍人の間に起󠄁りては彼の傳染病の如く蔓延し士風も兵氣も頓に衰へぬへきこと明なり朕󠄂深く之を懼れて曩に免󠄁黜條例を施行し畧此事を誡め置きつれと猶󠄁も其惡習󠄁の出んことを憂ひて心安からねは故に又之を訓ふるそかし汝等軍人ゆめ此訓誡を等閒にな思ひそ 右の五ヶ條は軍人たらんもの暫も忽にすへからすさて之を行はんには一の誠󠄁心こそ大切なれ抑此五ヶ條は我軍人の精󠄀神󠄀にして一の誠󠄁心は又五ヶ條の精󠄀神󠄀なり心誠󠄁ならされは如何なる嘉言も善行も皆うはへの裝飾󠄁にて何の用にかは立つへき心たに誠󠄁あれは何事も成󠄁るものそかし况してや此五ヶ條は天地の公󠄁道󠄁人倫の常經なり行ひ易く守り易し汝等軍人能く朕󠄂か訓に遵󠄁ひて此道󠄁を守り行ひ國に報ゆるの務を盡さは日本國の蒼生擧りて之を悅ひなん朕󠄂一人の懌のみならんや 明治十五年一月四日 御名 通称: 軍人勅諭 法令全書における名称: 軍人訓誡ノ勅諭 明治十五年陸軍省達乙第二号 底本: 『法令全書』明治15年,内閣官報局,明20-45. 国立国会図書館デジタルコレクション
旧帝国軍人の公の軍、ならびに国民の軍、並びに天皇の軍として矜持を示した事例ー1 ・円明園 (えんめいえん)は、中華人民共和国北京市海淀区に位置する、清代に築かれた離宮の遺構である。面積は350ヘクタールに及ぶ。中国の5A級観光地(2019年認定)[1] 1856年(咸豊6年)に勃発したアロー戦争(第二次アヘン戦争)に際して、北京までフランス・イギリス連合軍が侵入、フランス軍が金目のものを全て略奪したのち、遠征軍司令官エルギン伯の命を受けたイギリス軍が「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟となった。これに対して円明園を評価していたヴィクトル・ユーゴー[2][3]ら一部の文化人はこの破壊行為を批判した。ただし、長春園北側の西洋楼庭園の海晏堂前の噴水時計に設置されていた十二支像がこの時破壊・略奪されたという見解があるが、実際にはこのときは被害を免れ移設されたものである。1930年ごろに北京近郊でこの12の像の写真が撮影されており、その後首を切断され流出したものと考えられる(詳細は円明園十二生肖獣首銅像を参照)[4]。この際、円明園から略奪された宝物は大英博物館など主にヨーロッパ各地の博物館に所蔵・展示されている。その後も、1900年の義和団の乱などの戦乱や1966年に始まった文化大革命により円明園はさらに荒廃し、そのまま放置された。 1984年に遺跡公園建設が始まり、一部の地域が修復、整備された。1988年に中華人民共和国の国の重点保護文化財に指定され、観光資源として数多くの観光客を集めている。円明園自体への入場料は10元、西洋楼遺址区への入場料は15元。2000年代に入ると成人式の会場などのイベントにも利用され始めた[5]。 ・シベリア出兵 (シベリアしゅっぺい、英: Siberian Intervention)とは、1918年から1922年までの間に、第一次世界大戦の連合国(イギリス・日本・フランス・イタリア・アメリカ・カナダ・中華民国)が「革命軍によって囚われたチェコ軍団を救出する」を名目にシベリアに共同出兵した、ロシア革命に対する干渉戦争の一つ[1]。シベリア事変とも言う。 共産主義の封じ込めという目的のほかに帝政時代の外債と、露亜銀行などのさまざまな外資を保全する狙いもあった。 日本は1918年8月11日のウラジオストク上陸以来、増兵を繰り返して協定兵力を大きく超える兵力7万2,000人を派兵[2]。ハバロフスクや東シベリア一帯を占領したが、日本の反ボリシェヴィキ政権樹立工作は酷寒とパルチザンの抵抗にあって不成功に終った[1]。 ポーランド孤児の救済 東京の収容施設で炊き出しをするアンナ・ビエルキェヴィチ(孤児救済委員会会長)、本野久子(本野一郎元外務大臣の妻)ら ロシア帝国はポーランド人政治犯などを多数シベリアに流刑したため、ロシア革命当時のシベリアには相当数のポーランド人がいた。その後、ロシア革命の混乱と1918年11月のポーランドの独立によって、多数のポーランド戦災孤児(シベリア孤児と言われることもある)がシベリアに取り残されたが、その保護のために力を貸す国はなかった。ウラジオストクの「ポーランド極東の子供たち救済委員会(ポーランド語版)」代表のアンナ・ビエルキェヴィチ(ポーランド語版)が来日し、日本の外務省に協力を仰いだ。惨状を知った日本側は、外務大臣内田康哉、陸軍大臣田中義一、海軍大臣加藤友三郎、日本赤十字社長石黒忠悳らが協議の上、日本赤十字を中核としてシベリア出兵中にポーランド孤児を救出し、彼等を祖国に帰還させることを決定した[24]。 1920年(大正9年)7月に第1次ポーランド孤児救済が、1922年(大正11年)8月に第2次ポーランド孤児救済がそれぞれ行われた。計763人の孤児たちは付添の大人のポーランド人65名とともにウラジオストクから船で敦賀に入り、宿舎となった東京の福田会育児院、大阪天王寺の大阪市立公民病院看護婦寮に収容され、全国からは寄付金や支援物資が集まった[25][26]。この活動によって約800名のポーランド孤児が祖国への帰還を果たした[27]。また、これとは別に1920年9月からは、日本の福田会など複数の孤児院が戦災孤児数百人の引き取りを始め[28]、後にポーランドへ帰還させた。 シベリア出兵に従軍し孤児を救った51名の日本軍将校に対し、ポーランド政府は1925年にヴィルトゥティ・ミリターリ勲章(英語版)を授与して、その功績に報いた。また、腸チフスの孤児たちの看病中に自らも罹患して23歳で亡くなった日本赤十字の看護婦・松澤フミにもポーランドから1921年に赤十字賞、1929年に名誉賞が授与された[29]。 2001年にはポーランドでドキュメンタリー映画『SYBERYJSKIE SNY (シベリアの夢) 』[30]、2003年には日本でドラマ『ワルシャワの秋 (テレビドラマ)』、2020年にドキュメンタリー番組『未来に伝えたい 100年前のニッポン人 ~ポーランド孤児救出の軌跡~』[31]が制作された。
旧帝国軍人の公の軍、ならびに国民の軍、並びに天皇の軍として矜持を示した事例ー2ー1 ・工藤 俊作 (くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 - 1979年(昭和54年)1月12日)は、大日本帝国海軍軍人。1942年3月の駆逐艦「雷」艦長時に、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行させた人物として知られる。最終階級は海軍中佐。 太平洋戦争 工藤が乗務する「雷」は第六駆逐隊に属し、太平洋戦争開戦時には僚艦「電」とともに第二遣支艦隊に属し香港の戦いにて海上封鎖を行った。その後、戦艦「榛名」を旗艦とする南方部隊本隊東方支援隊に入り、蘭印作戦等の南方の諸作戦に参加した[1]。 1942年3月1日のスラバヤ沖海戦では友軍と共同してイギリス海軍の重巡洋艦「エクセター」や「エンカウンター」を撃沈するなどの戦果を挙げる[1]。翌3月2日、航行中の「雷」は漂流者を発見。彼らは前日の掃討戦で沈没した「エンカウンター」等の乗組員であったが、艦長の工藤は「おい、助けてやれよ」と一言発して救助を指示した。敵潜水艦などからの攻撃を受ける危険を冒しながらも3時間に亘り行われた救護活動の結果、「雷」は乗組員に倍する422名を救助した。工藤は救助した英士官に英語で「あなた方は非常に勇敢に戦った。今、あなた方は日本海軍の名誉ある賓客である[注 1]。」とスピーチしたという[3][4][2][5][6][7]。翌日、バンジャルマシンに停泊中のオランダ海軍の病院船「オプテンノール」に捕虜を引き渡した[8]。 その後、雷はフィリピン部隊に編入され、さらに第一艦隊に編入し内地帰還を命ぜられた。5月20日には第五艦隊の指揮下に入り、アッツ・キスカ攻略作戦に参加した[8]。 工藤は1942年8月13日に駆逐艦「響」艦長に就任[1]、11月に海軍中佐に昇進した。「響」では改装空母「大鷹」の護衛にあたり、横須賀とトラック島間を3往復した[1]。12月に工藤は海軍施設本部部員、横須賀鎮守府総務部第一課勤務となり、翌年には海軍予備学生採用試験臨時委員を命じられた。1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となった。 戦後 戦後は公職追放となり[9]、故郷の山形で過ごしていた。妻の姪が開業した医院で事務の仕事に就くため埼玉県川口市に移ったが、1979年に胃癌のため没した。臨終前にクラスの大井が工藤のもとに駆けつけたが、大井に「貴様はよろしくやっているみたいだな。俺は独活の大木だったよ」と答え、その後に息を引き取ったという。工藤は同市の薬林寺の墓に眠っている[5]。 上記敵兵救出の事実は、戦時中の国民世論の反発を考慮して公表されず[2]、工藤自身もこのことを親族にも語らなかったという[10]。 後述するとおり、遺族がこの逸話を知ったのは、助けられたイギリス海軍士官のうちの1人であったサムエル・フォール元海軍中尉によってである[11]。更に2006年に惠隆之介が『敵兵を救助せよ!』を出版したことで、世間にも知られるようになった[10]。 人物 身長185cm、体重95kgといった堂々とした体躯で柔道の有段者であったが、性格はおおらかで温和であった。そのため「工藤大仏」という渾名がついたという。海軍兵学校時代の校長であった鈴木貫太郎の影響を受け、艦内では鉄拳制裁を厳禁し、部下には分け隔て無く接していた事から、工藤が艦長を務めていた際の艦内は、いつもアットホームな雰囲気に満ちていたという[12]。決断力もあり、細かいことには拘泥しなかったので、部下の信頼は厚かった[13]。戦後は海兵のクラス会には出席することもなく、毎朝、戦死した同期や部下達の冥福を仏前で祈ることを日課にしていたという。
2-2 エピソード 高松宮宣仁親王が「長門」に乗務の時、階段で転んで足に怪我を負い、艦内で草履を履くことになった。時宮の1人は大正天皇のお見舞いに行くことになったが、「さすがに草履というわけにはいかないのでどうしようか」と周囲に相談したところ、宮の心中を察した少尉の1人が「私のクラスに大足の大男がいます。奴の靴を借りましょう」と靴を借りてきた。それを宮が履いてみたところ包帯で巻かれていた右足はピッタシだったが左足はダブダブだった。「仕方ないので左は自分の靴を履いていくことにする」と左右全く大きさの違う靴を履いて天皇をお見舞いした。「上手く行った。御殿の人間にも侍従にも全くバレなかった」と宮は大喜びしたという。その少尉は「それでは奴に酒をおごらないといけませんな。奴は酒好きですから」と言ったので3人で宴会となり、後に同期全員で大宴会となった。最後は「殿下のツケでお願いします」となり宮が酒代すべてを支払うことになったというエピソードがある。この少尉の言う「大足の大男」で「酒好き」の「奴」こそ、少尉時代の工藤であった[14]。 香港の戦いで敵の哨戒艇の追撃中に陸上砲台の射程内に入ってしまい、砲撃を受けた「雷」の周囲には水柱が次々と上がったが、工藤は普段と全く変わらぬ素振りで部下に操艦を任せていた。これを見た乗員は皆、「この艦は沈まない」と思ったという[3]。 雷沈没当日の夜、雷に乗艦していた時の部下たちが「艦長!」「艦長!」と駆け寄り、工藤を中心に輪を作るように集まって来て静かに消えていった、という夢を見た。工藤ははっと飛び起き、雷に異変が起きたことを察知したという。 上述の「雷」に救助された砲術士官であったサムエル・フォール元海軍中尉(フォール卿)は、戦後は外交官として活躍したが、恩人の工藤の消息を探し続けていた。フォール卿は1987年にはアメリカ海軍の機関誌「プロシーディングス」の新年号に「武士道(Chivalry)」と題する工藤艦長を讃えた7ページにわたる投稿文を掲載した他、天皇訪問を控えてイギリスでの反日感情が高まりかけていた1998年にもタイムズ紙に「雷」の敵兵救助を紹介する投稿文を送って反日感情緩和を図った[7]。フォール卿が工藤の消息を探し当てた時には既に他界していたが、せめて工藤の墓参と遺族へ感謝を伝えようと2003年に来日した。しかし滞在中にそれらを実現できなかったため、惠隆之介に依頼した結果、2004年12月に墓所等の所在が判明した。そのことはフォール卿へ報告され、翌2005年1月に恵は墓参等を代理して行った。 その後「海軍中佐工藤俊作顕彰会」の招きを受けたフォール卿は、駐日イギリス大使館附海軍武官や護衛艦「いかづち」乗員らの付き添いのもと、2008年12月7日に66年の時間を経て埼玉県川口市内の工藤の墓前に念願の墓参りを遂げ、感謝の思いを伝えた。この時行われた記者会見で、フォール卿は「ジャワ海で24時間も漂流していた私たちを小さな駆逐艦で救助し、丁重にもてなしてくれた恩はこれまで忘れたことがない。工藤艦長の墓前で最大の謝意をささげることができ、感動でいっぱいだ。今も工藤艦長が雷でスピーチしている姿を思い浮かべることができる。勇敢な武士道の精神を体現している人だった」と語っている[5][11][7]。このエピソードは2007年4月19日、フジテレビのバラエティー番組奇跡体験!アンビリバボーにて「誰も知らない65年前の奇跡」として再現ドラマを交えて紹介された。 工藤による敵兵救助行為をたたえるべく、出身地の高畠町の有志らによって顕彰碑建立が計画され、2010年から浜田広介記念館前に設置されている[11][15]。 関連項目 上村彦之丞 - 装甲巡洋艦「出雲」に乗艦して参加した蔚山沖海戦において、撃沈した装甲巡洋艦「リューリク」の敵兵を救助している。これに先立つ常陸丸事件の際には陸軍徴傭運送船喪失の責任を巡って新聞で中傷され自宅に暴徒が押し寄せるなどしていた上村にとって「リューリク」は恨みの深い相手であったが、その戦いぶりに感銘を受け救助を命じた。工藤の幼少期、この出来事を題材にした『上村将軍』と呼ばれる歌を祖母が子守唄代わりに聞かせていたとされている[16]。 その他 工藤が行ったスラバヤ沖海戦での敵兵救助作業と似たような事例としては、上述の上村彦之丞の他、以下のような例がある。 一ノ瀬志朗 - 海防艦第10号海防艦艦長としてヒ72船団の生存者捜索に参加中、捕虜の航送中に撃沈された「楽洋丸」(南洋海運:9,418総トン)の生存捕虜157名の乗った4隻の救命ボートを発見し、停船して彼らを救助した。戦後、救助された捕虜の一人、オーストラリア軍のローランド・リチャーズ軍医大尉は、アメリカ潜水艦が我が物顔に猛威を振るっていた危険な海域で、身の危険をも顧みず、艦を停止して救助してくれた日本の海防艦の艦長や家族にお礼を言いたいので、是非捜して欲しいとPOW研究会(Prisoner of War=戦争捕虜)に依頼し、同研究会は読売新聞社に依頼して一ノ瀬の消息を探したが、見つかることはなかった。
特攻隊員の矜持 ブログー海と飛行機雲より引用。 ・筑波海軍航空隊 ③ 2014-08-15 01:50:00 テーマ:筑波空 終戦から69年です。 先の大戦で戦い、尊い命を失われた御英霊へ心より追悼の意を表します。 昭和20年のこと。作家の山岡荘八氏は、海軍の報道班員として鹿児島の鹿屋基地に配属されます。野里村、そこには桜花や零戦で特別攻撃をする「神雷部隊」がいて、その多くは学鷲とよばれる予備学生たちでした。 みな自分から志願した者で、もはや動揺期は克服していて屈託なく明るい。山岡氏は、この「必死部隊に漂う底抜けの明るさ」がなぜ隊員達にあるのか?いつか解きたいと考えていました。和綴じの署名帳を持って隊員たちに揮毫を求めたりしながら積極的に話しかけ、隊員たちの行動や考えを知ろうと努めます。 その中で出会った西田高光中尉(予備13期)。 あるとき山岡は思い切って、当時は禁句であったこんな質問をしてみました。 「この戦を果たして勝ち抜けると思っているのか?負けても悔いはないのか?」 「そんな心境にどうやってなったのか?」 その問いに、西田中尉が答えます。 西田中尉は入隊以前、19歳の若い教師として郷里大分の国民学校に奉職。68名の教え子に兄と慕われる人物だったそうです。 「学鷲は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。 しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです…」 「おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、 その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう、民族の誇りに…」 西田高光 海軍中尉 神風特別攻撃隊 第五筑波隊長として 昭和二十年五月十一日、鹿屋基地から出撃。 西田中尉の出撃の2日前、死装束となる新しい飛行靴が配給されました。 すると、彼はすぐに部下の片桐清美一飛曹を呼び出し、 「そら、貴様にこれをやる。貴様と俺の足は同じ大きさだ」と言った。 いかにも町のアンチャンという感じの片桐一飛曹は顔色を変えて拒みます。 「頂けません。隊長のくつは底がパクパクであります。隊長は出撃される・・・要りません」 と。 すると 「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しい靴で闊歩してみたいのをよく知っているぞ」 「命令だ。受取れ。おれはな、靴で戦うのでは無いッ」 五月十一日の朝、 西田中尉はボロボロの飛行靴をはいて、500キロ爆弾と共に大空へ飛び立って行きました。 山岡氏は見送りの列を離れ声をあげて泣いたという。 西田中尉出撃の2日後、中尉の母と兄嫁が基地に訪ねてきました。 真実を話せなかった山岡氏は、中尉は前線の島に転勤したとウソを告げ、 休息所となっていた小学校にに案内しました。 しかしそこには「西田高光中尉の霊」が祀られ香華がそなえてありました。 あわてた山岡の耳元に兄嫁が「母は字が読めません」とささやきます。 場を取りつくろったつもりで2人を控室に伴い、お茶が出されたその時でした。 「ありがとうございました。息子がお役に立ったとわかって、安心して帰れます」 山岡氏はいきなりこん棒でなぐられた気がした、という。 文字は読めなくても母親の勘ですべてを悟った中尉の母。 丁寧に挨拶し、兄嫁を励ましながら涙一滴見せずに立ち去ったそうです。 以上です 「その後の日本人」「民族の誇り」。そこまで見据えて飛び立って行かれた方が、かつて沢山いたのですね。 今日の日本の繁栄が、こうした戦陣に散り戦禍に斃れた方々の 尊い犠牲の上に成されたものであることを決して忘れてはならないし、 感謝していかなければならない。そう思っております。
チャンネル桜の討論での水島と矢野間で問題になった個所については、水戸学、皇国史観、統帥権干犯問題、翼賛体制あたりにあるものの。矢野氏は自衛隊ОBである。当然のこと軍の継続的士気の低下を防ぎ、守勢においての戦意の高揚を考慮すれば当然である。 が、この場合は指揮官ではなく。罪はバンザイクリフや沖縄戦での民間人の自決などを生じた東条の戦陣訓と、上に媚びたい尉官や、民間人にあるとしたほうがいいように思う。 当家も、武家、軍人の家系にあるので、この点は着地点の一致を試みる。 また、当年にチャンネル桜ではモデレーターに設定されていたが自ら運営に指摘して、自主的に遠慮した。そのせいか、直接に二度も水島氏から、運営のコメント削除への説明があったので。説明なく放置された視聴者の人々、その他の、「なんでアイツだけ」という怨恨、嫉妬羨望を受けることを避けるため、コメントはしていないので。折りもいので。こちらに記載させていただいた。 また、チャンネル桜では隠れモデレーターが恣意的な判断で削除や非表示にされているという風聞がたってもよろしくない。チャンネル桜運営は、既に自ら削除していると明言しているので、この際は「RUclipsが削除している」という指摘も的外れでもある。勘違い、あるいは誤操作で、削除されていると見たほうがいいように思う。また、当方が「隠れモデレーターである」という猜疑を避けるため、チャンネル桜の運営氏には直接チャット欄で指摘した。岩崎氏においては、御寛恕ならびに、御諒解あれ。 が、実際は、「チャンネル削除」などと揶揄されて評判は悪いのは事実でもある。 当方は以前に、モデレーターもやっていたが、これもいきなり設定されていたものである。この分には問題はない。ただし、「煉獄炭次郎」なるモデレーターが、片っ端からアカウント削除をしまくった結果、チャンネル桜ではモデレーター制は廃止されているのでそもそもよろしくない。これ以前にも、運営側が別館で削除しまくった事例もある。現在は超党派と言っているので、その懸念はないが。そもそも見たくなければ、自主的にブロックするのが適切であると思う。こちらにでもどちらにでも、当方に何か言いたければ、コメントでもこちらにでもされるがよかろうように思う。当方も相応にお相手する。 以前の国守神戸のモデレーターのTータダシ氏も(彼のいわくについては割愛)、当方のみならず、無作為に複数名のハンドルを削除しているが、こちらはダンディ中村氏ではなく、関西国守代表の稲垣氏の範疇でもあるので、そちらに指摘させて頂くとする。そもそも当該チャンネルの岩崎氏には無関係であるが。 当方としては、「自称国守衆」であた、Tータダシ氏に削除された方々の鬱憤なり、憤懣をもこの場において表明させていただく。彼らのハンドル名は割愛するが、ご高齢の方も 多いので、年若い「Tータダシ」なる愉快犯に削除されてヘラヘラと高笑いされっぱなしでは、気分も悪かろう。この仁は長く参加しているらしいので、削除しいたTータダシ氏を、ほったらかしにしていた責任は旧神戸国守の稲垣氏にある。この旨、別個で批判、糾弾、弾劾する予定でもある。 この文章で、国守衆になりすましていたT―タダシ氏に削除された方々の溜飲がさがれば是れ幸いでもある。以降のコメントは事象の羅列であるので、コメント枠を消費する必要もない。少々長くなるが、読了するか否かはご自由にされてよろしいと存じ上げる。 また、この場をお借りして岩崎氏には諸般について感謝御礼申し上げる。
・統帥権干犯問題 昭和5年(1930年)に浜口雄幸内閣がロンドン海軍軍縮条約を調印した際に、海軍軍令部長の反対を押し切って条約を結んだことに対して、天皇の統帥権を侵害したとして問題となった事件です。 内容 背景 アメリカ・イギリスに対して、日本の補助艦の保有率を約7割に制限する条約が締結される 問題点 海軍軍令部長の承認なしに兵力量を決定することは天皇の統帥権を犯すものだとして、右翼や政友会が内閣を攻撃した 経過 政友会の鳩山一郎が帝国議会で政府を攻撃し、枢密院でも伊東巳代治顧問官を筆頭に統帥権干犯を問題として政府が追及された 結果 浜口内閣は条約締結貫徹で一歩も引かず、枢密院も同年10月に条約批准を決めた 大日本帝国憲法下では、軍の作戦や用兵は政府から独立した統帥権に属し、海軍軍令部長が天皇を補翼していました。一方、兵力量の決定は統帥権ではなく編成大権とされ、軍政を担う海相か陸相が輔弼するのが慣例でした。 ・統帥権 軍隊を指揮・運用する権限です。日本では、明治憲法で天皇が陸海軍を統率する「統帥権」が定められ、天皇大権として国家を治める権利の全てを握っていました。 統帥権に関する主な特徴は次のとおりです。 天皇は「大元帥」として陸海軍を統率し、参謀本部や軍令部が天皇を補佐する。 内閣や議会は統帥権に口出しすることができない。 天皇は戦争を始めたり、講和したりする権利も持つ。 統帥権の独立とは、軍を指揮する軍令機関の長が天皇を補佐する体制を指します。軍事は専門領域と見なされていたため、首相も関与できず、統帥権が独立した状態となりました。 統帥権の独立は、政治と軍事の優先順位ではなく、統帥権の範囲に集中してしまったという問題点があります。また、大局的な視野がなく、専門家の判断が優先されるという問題点も指摘されています。 ・山縣 有朋 (やまがた ありとも、旧字体:山縣 有朋󠄁、1838年6月14日〈天保9年閏4月22日〉- 1922年〈大正11年〉2月1日)は、日本の政治家[1]。最終階級・称号は元帥陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功一級公爵。 帝国国防方針案 1906年10月、元老として「帝国国防方針案」を明治天皇に上奏した。日露戦争後の日本の国防構想を、側近の田中義一歩兵少佐に起草させたもので、天皇は参謀本部と海軍軍令部に検討するよう求めた。山縣の案は軍事官僚組織の検討により公的性格を帯びることとなった。両部は検討の後に上奏、さらに天皇は、自らの最高軍事顧問組織である元帥府に検討を求めた。 1907年4月19日、元帥府会議は、下げ渡された「日本帝国ノ国防方針」「国防ニ要スル兵力」「帝国軍ノ用兵綱領」のすべてを「至当ノ策」と認定し、上奏した。ここに、統帥の最高責任者である天皇が承認した軍事方針が確定する[240]。
・帝国国防方針 (ていこくこくぼうほうしん)とは、大日本帝国における軍事戦略についての基本的な方針を定めたもの。1907年(明治40年)、明治天皇が承認した。 概要 帝国国防方針は国防の基本戦略を記した軍事機密文章である。[1]帝国国防方針、国防に要する兵力、帝国軍の用兵要領の三部から構成されている。第一部の国防方針は国家目標と国家戦略、また導かれる国防目的と国防方針、仮想敵国と情勢判断、所要軍備などについて述べられている。 第二部には所要兵力、即ち軍事政策の具体的な目標としての師団数、軍艦数などの数値目標が定められている。第三部には日本の軍事ドクトリンと仮想敵国に対する個々の作戦計画大綱が述べられている。[2] 日本陸軍が陸海軍作戦の統合的な国防方針を策定しようと発案したことがきっかけとなり、明治40年4月4日明治天皇により裁可されたのが最初となり、以後国際情勢の変化などに応じて変更された。しかし、事実上は日本陸軍はロシア、日本海軍はアメリカ合衆国を仮想敵国とする事態は変わらず、その国防思想を統一するという当初の狙いは不十分にしか達成されなかった。[3] 歴史 1905年8月日英同盟の改訂が行われた事を受けて、仮に将来イギリスとロシア帝国との間で開戦となった場合の日本軍の対処方針について山縣有朋を中心に検討したのがルーツとされている。その後、三国協商・日露協約締結によってその可能性は失われたものの、長年の国防における「海主陸従」状態の打破の好機と見ていた山縣はあくまでも策定の成案を目指した。山縣の原案を元に当時陸軍中佐であった田中義一が草案を作成したものであった。海軍側もこれに対抗して同様の計画を作成して陸海軍揃って提出するに至ったのである。 仮想敵国をロシア・アメリカ・ドイツ・フランスとし、陸軍は平時25個師団・戦時50師団体制を、海軍は八八艦隊の創設を謳っていた。当時の西園寺公望内閣総理大臣は、国防方針への意見と所要兵力の閲覧のみが許され、用兵綱領に関しては統帥権を盾に関与が阻まれた。だが、国防方針の最終決定から首相を排除したことは、逆に政府から国防方針の実行を迫る保証が取れなくなってしまう事を意味し、実際に2個師団増設を財政問題を理由に拒絶されるなどの問題点も浮上した。 また、軍事力強化を優先する余り、仮想敵国の状況が現実の日本を取り囲む状況を反映しないという点も問題とされた(大正7年の改訂では、当初第一次世界大戦において、ドイツの勝利と独露軍事同盟を想定してロシア革命で白紙に戻すという事態を招いている)。このため、大正7年と12年の改定では閣議に提出して同意を求め、昭和11年の改定では外務大臣に意見を求めて整合性のある仮想敵策定を行うなど、軍側から政府へと歩み寄る姿勢も見せた。 内容 帝国国防方針は大正7年、12年、昭和11年に改定されたが大きな変化はなかった。ただし仮想敵国はロシア・アメリカ・中国から、アメリカ・中国・ソ連、第三回の改定ではアメリカ・ソ連・イギリス・中国に順序が若干変化した。この帝国国防方針に基づいて、「帝国軍ノ用兵要領」、さらに「年度作戦計画」が作成された。 明治40年帝国国防方針 明治40年(1907年)4月4日に初めて策定された国防方針においては、まず国家目標として開国進取の国是に則って国権の拡張を図り、国利民福の増進に勤める二点にと定められた。 そしてこの国家目標に基づく国家戦略としては、満州及び大韓帝国に扶植した利権と東南アジア・中国に拡張しつつある民力の発展の擁護と拡張であると定められたのだった。したがって国防方針は帝国軍の国防は東アジアにおいて日本の国家戦略を侵害しようとする国に対して攻勢を取ることを定め、さらに満州や韓国に利権を扶植したので、国土での専守防衛を明確に否定している。[4] 大正7年帝国国防方針 大正7年(1918年)6月29日の国防方針の正文は終戦時の焼却処分で失われ、その内容は関連資料による推測に依存している。以前の国防方針で定められた開国進取や国利民福の国家目標や中国・東南アジアへの進出という国家戦略に大きな変化が見られなかったために国防方針も大きく変化するものではなかった。 しかしながら第一次世界大戦は日本の軍事ドクトリンに影響し、総力戦体制の必要性が認識されるようになっている。[5] 大正12年帝国国防方針 大正12年(1923年)2月28日の改定においては、従来の国是、国家目標、国家戦略、国防方針の順序で記述され、政戦略の一致が重視されていたが、国是や国家戦略が省略され、国防の本義として要約される形となっている。 国防の本義は国防の目的として自主独立の保障、国利国権の擁護、国家の発展、国民の福祉増進という原則的な記述にとどまり、国家戦略の部分については従来のような具体的な記述はない。また軍事ドクトリンとしては総力戦に配慮しながらも短期決戦の攻勢が強調されている。 また国際的な孤立を回避した上で対立がもっとも激しい外国に対しては警戒し、敵国が結合することを防ぎながら同盟を密接にして戦争遂行で優位に立つように努め、敵を海外において撃破して速やかに終結するという攻勢作戦の軍事ドクトリンが述べられている。[6] 昭和11年帝国国防方針 昭和11年(1936年)6月3日の改定では前回の改定から国是、国家目標、国家戦略が国防の本義としてまとめられる構成となっている。その国防の本義とは、国家の権威を高めることと経済的な繁栄にあるという原則的な記述となった。 そして国防方針は外交で国家の発展を確保し、その上で有事においては先制主義と短期決戦を軍事ドクトリンとすることが定められた。また持久戦・総力戦に配慮しながらも短期決戦に必要な平時における軍事力の準備が強調されている。[7]
・ワシントン海軍軍縮条約 (ワシントンかいぐんぐんしゅくじょうやく)は、1921年(大正10年)11月11日から1922年(大正11年)2月6日までアメリカ合衆国のワシントンD.C.で開催されたワシントン会議のうち、海軍の軍縮問題についての討議の上で採択された条約。 詳細は「ワシントン海軍軍縮条約での各国保有艦艇一覧」を参照 アメリカ(米)、イギリス(英)、日本(日)、フランス(仏)、イタリア(伊)、いわゆる五大国の戦艦・航空母艦(空母)等の保有の制限が取り決められた[2]。華府条約(ワシントン条約)とも表記される。 背景 戦時国債のポスター(1918年、イギリス)。 第一次世界大戦が終結した後も、戦勝国となった連合国側は海軍力(特に戦艦)の増強を進めた。各国の軍備拡張計画の内、代表的なものは、アメリカのダニエルズ・プラン(三年艦隊計画と呼ばれることもある)と日本の八八艦隊計画である。また大日本帝国海軍は会議が始まる前の7月には茨城県霞ヶ浦の航空練習場を完成させており、イギリスのセンピル教育団の指導による霞ヶ浦海軍航空隊の創設に向けて、大日本帝国海軍航空隊を更新しようとしていた。 しかし、軍備拡張に伴う経済負担は各国の国家予算を圧迫し、建造計画の遅滞を引き起こすことになった。先の八八艦隊を例に取れば、艦隊建造のためだけに国家予算の1/3を使い、維持だけでも半分弱を使うことになる。 このため、アメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提案で戦勝5か国の軍縮を行うことになる。 要塞化禁止条項 対英米比6割と陸奥保有に併せて日本の提案により、太平洋における各国の本土並びに本土にごく近接した島嶼(とうしょ)以外の領土について、現在ある以上の軍事施設の要塞化が禁止された[注 3]。 日本 千島列島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾、澎湖諸島、そして将来取得する新たな領土(内南洋のこと)の要塞化禁止 奄美大島以外の奄美群島は対象外 対馬は太平洋に面していないので条項の対象外 アメリカ フィリピン、グアム、サモア、アリューシャン列島の要塞化禁止 アラスカ、パナマ運河、ハワイ諸島は対象外 イギリス 香港並びに東経110度以東に存在する、あるいは新たに取得する島嶼の要塞化禁止 カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは対象外 東経110度以東なので、シンガポール(東経103度)は条項の対象外 航空母艦 会議開催当時、空母は誕生したばかりであり、その運用法も潜在的能力もわかっていないものであった。そのため、空母に関してはかなり特殊で(今日の目から見れば)奇妙な規制を受けている。 空母は巡洋艦と同様補助艦とされているが、巡洋艦と違い保有比率は規定され戦艦と同等(改正前)とされているが、その割り当て排水量は戦艦の3分の1程度である。一艦あたりの規定排水量は2万7000トンとなっているが、2艦に限り3万3000トンまで可能とされている。 搭載砲は8インチ以下で、6インチ以上の砲を装備する場合5インチ以上の砲を合計10門以下しか搭載できないと定められている。ただし、先の二艦に関しては5インチ以上の砲を合計8門以下となっている。搭載砲を規定しない場合、戦艦に匹敵する砲力を持つ艦を空母の名目で建造する航空戦艦という抜け道になる事が懸念されたからである。しかしこの規定でも、重巡洋艦と同等の艦砲を搭載する事が可能である。後の視点で考えれば、空母が駆逐艦や航空機に対する個艦防御戦闘ではない本格的な砲戦を行うことはあり得ないため、この規定はナンセンスといえる(小目標に対する防御戦闘用であれば、3 - 5インチ程度の小口径砲を多数装備するのが合理的であり、5インチ以上の砲は必要ない。いわゆる「5インチ砲」はぎりぎり5インチ未満の口径である)。しかし、条約締結当時は航空機の航続距離が短く、空母も発展途上の艦種であり、空母も砲戦の機会があると考えられていた。実際にも規定枠いっぱいの艦砲を搭載する空母が建造された。 その他 このときの日本全権は、加藤友三郎・幣原喜重郎・徳川家達である。 戦艦新造は条約締結後10年間は行わない。ただし、艦齢20年以上に達した艦は条約の範囲で代艦建造が許された。巡洋艦に関しては、艦に対する制限は決まったが保有排水量に関しては合意が得られず、1万トン以下の空母は条約対象外とされ、駆逐艦は備砲は5インチ以下と決まったのみ、その他艦艇に関しては備砲8インチ・排水量1万トン・速力20ノット以下と決定した。また、あやふやだった艦の大きさの基準を「基準排水量」で統一することに決まった。 満期になった日英同盟は更新されず、新たな条約として「四カ国条約」が締結された。 ワシントン本会議においては上述5ヶ国に中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルを含めた9ヶ国で協議が行われ、中国領土の保全など九カ国条約を決議して閉幕した。 日本側は英国の譲歩を引き出すため、事前に鉄道省に相談せず外務官僚主導で英国製電気機関車を大量に発注したが、その努力は報われなかった。元々、英国内の幹線電化もそれほど進んでおらず、電気機関車製造の経験が浅かったため、輸入した機関車はトラブル続きだった。やがてそれが日本側技術陣を鍛え、電気機関車国産化に繋がる(→日本の電気機関車史・国鉄ED17形電気機関車)。 条約の影響 条約の拡張と失効 ワシントン条約の制限は1930年のロンドン海軍軍縮条約と、1936年の第二次ロンドン海軍軍縮条約によって拡張および修正が行われた。しかし、調印国の一部が条約から脱退したり、それらに密約を与える国が現れたため、1930年代には条約の効果が低下することとなる。 日本政府は1933年3月、国際連盟を脱退した。米国では1934年(昭和9年)4月13日、大学生団体が戦争反対を求め全国授業ストライキ(盟休)を行った[8][注 6]。しかし日本では疑獄事件である帝人事件さなかの7月20日、帝国弁護士会が会誌上で条約廃止通告を求める声明を発表した[9]、日本政府は12月29日、条約の破棄を寄託者へ通告した[10][注 7]。 1936年(昭和11年)12月に本条約は失効した。これは、破棄通告後2年で失効するためである。 日本は1936年にロンドン海軍軍縮条約から脱退し、1938年、英米両国は、排水量最高45,000トンまでの戦艦を許容した第二次ロンドン条約の「エスカレーター条項」を発動、それにより海軍軍縮についての条約は実質的に失効し、これ以後、世界は制限なき軍艦建造競争の時代に突入していった。
シーメンス事件 (シーメンスじけん)は、ドイツ帝国のシーメンス社による日本海軍高官への贈賄事件である。巡洋戦艦「金剛」発注にまつわるイギリスのヴィッカースによる贈賄も絡んで、当時の政界を巻き込む一大疑獄事件に発展した。1914年(大正3年)1月に発覚し同年3月には海軍長老の山本権兵衛を首班とする第1次山本内閣が内閣総辞職にまで追い込まれた。発音によってはジーメンス事件とも呼ぶ[1]。一連の事件の裁判中に第一次世界大戦が勃発し、日本政府はドイツではなくイギリスなど連合国側での参戦を決定した[注釈 1]。 事件の背景 山縣有朋は独逸学協会のメンバーでもあった。 海軍は明治初年以来、イギリスやドイツなどから艦船や装備品を購入しており、外国の造船会社相互間の競争は激しく、海軍の高級技術将校や監督官などは、その立場上各造船会社や軍需品を取り扱う企業の日本代理店との交渉や手数料をめぐって問題を起こしやすかった。日本赤十字を擁する軍部は、イギリスのJ. P. コーツ(英語版)日本工場である帝国製糸、機械部品のアール・ヂック社(R. and J. Dick)、アメリカのシンガーミシンなどから物資を調達していた[注釈 2]。 明治末期から大正初期にかけては、藩閥・軍閥に対する批判が高まった時期であり、軍の経理問題にも一般の関心が寄せられた。前年の1913年(大正2年)には大正政変・第1次護憲運動で長州閥・陸軍に攻撃の矢が向けられたが、このシーメンス事件が発覚すると、薩摩閥と海軍とに批判が集中した。 山縣有朋とプロイセンのヴィルヘルム2世との利害関係一致による陰謀との説があり、シーメンス事件当時検事総長だった平沼騏一郎も後に回顧録でこの説を容認している。山縣有朋は薩摩閥・海軍と対立していた長州閥・陸軍の代表的存在であった。この少し前に日本海軍の活躍により日露戦争に勝利、「日本海軍育ての親」と称される山本権兵衛が首相となった。山本権兵衛は陸軍の主張であった軍部大臣現役武官制を一部廃止、陸軍の二個師団増設案を拒否、山縣有朋が議長を務める枢密院の定員削減などの行政改革をしながら八八艦隊建設計画予算を計上していた。ヴィルヘルム2世はイギリス海軍に対抗して海軍拡張を進めており、イギリス海軍の分身とみなす日本海軍の金剛型戦艦4隻を「ドイツ東洋艦隊を無力化する」として脅威に感じていた[4]。 事件の概要 シーメンス商会の横浜支社支配人の吉田収吉の姪は海軍艦政本部部員の造船中監鈴木周二の妻であったため、シーメンス商会は入札情報を事前に入手し、イギリスのヴィッカースやアームストロングより有利に入札、海軍関係の通信・電気装備品を一手に納入し、謝礼を海軍将校に支払っていた。外国企業が受注の謝礼をするのは当時当然の慣例になっており、宮内大臣にも贈って来ていたが、検事総長の平沼騏一郎によれば、歴代の宮内大臣でこの謝礼を私有せずに国庫に納めたのは波多野敬直だけだったという。また日本海軍も、ロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた[4]。 事件は、1913年10月17日[4]、この謝礼を示す秘密書類を会社から盗み出したシーメンス商会社員のカール・リヒテル(Karl Richter)が、東京支店長宛に買い取るように脅迫文書を送ったところに始まる[4]。要求金額は2500ポンドとも[5]、25000円[4]ともいわれているが、この脅迫は拒否され失敗した。カール・リヒテルは次いで、この書類をロイター通信特派員のアンドルー・プーレー(Andrew M. Pooley)に売り渡して、ドイツへ帰国した。シーメンス商会の重役陣は、同社の信用失墜と関係海軍将校への影響を怖れてもみ消しを図り、公表を阻止した。 当時海軍大臣の斎藤実はこれを知らされ、「わが海軍部内にかかる醜事に関係する武官あるべからず、秘密書類の公表はむしろ望むところなり」と回答し、内情調査をするよう連絡したが、政局重大の折でもあり海軍当局の正式な連絡後に司法活動を開始することとし一応静観の態度を取った。その後シーメンスとプーレーの間で妥協が成立し、1913年11月27日にシーメンスが秘密書類を50,000円で買い取り横浜領事館で焼却[4]、一度事件は終結を見た。 ところがドイツの秘密機関がこの経過を全て把握しており、ドイツ官憲はシベリア鉄道で帰国するリヒテルがドイツへ入国した瞬間にこれを逮捕、恐喝未遂罪で起訴した[5]。判決は贈収賄があったと認定し、贈収賄が犯罪を誘発したとして情状酌量を認め、カール・リヒテルは2年に減刑された懲役刑に処された[5]。公正中立をもって知られるドイツ司法裁判所ではあったがこの事件に限っては国際儀礼に反して一審判決から日本海軍将校の実名をも進んで通信社に公表した。 リヒテルに対するベルリン公判廷の判決文には、リヒテルが盗んだ書類にはシーメンス側が発注者である日本海軍将校(艦政本部第四部長藤井光五郎海軍機関少将と艦政本部部員沢崎寛猛海軍大佐)に賄賂を贈ったとの記載があることが記載されており、1914年(大正3年)1月21日、ベルリン発のロイター外電がこれを報じた[5]。 そのことから、立憲同志会の島田三郎が1月23日、第31議会衆議院予算委員会でこの件について厳しく追及した[4]。1月末から2月初めにかけて関係者の喚問や家宅捜索が開始された。アンドルー・プーレーは1月30日に司直からの家宅捜索を受け[6]、リヒテルから秘密書類を購入したことが明らかになり拘置された。この代金は750円[4]とも25万円[5]ともいう。プーレー夫人のアンは帰宅を許されたが1月31日の取り調べの後剃刀で自殺未遂をしている。 山本内閣は、この議会において海軍拡張案とその財源として営業税・織物消費税・通行税の増税の予算案を提出していたことから、これに反対する民衆の攻撃の的となり、新聞は連日海軍の腐敗を報道し、太田三次郎、片桐酉次郎ら海軍内部からの内部告発もあり世論は沸騰した。2月5日、憲政擁護会は時局有志大会を開き、薩閥根絶・海軍郭清を決議した。2月6日、各派連合有志大会が国技館で開かれ、1万5000人が参加した。 内閣弾劾決議の日、日比谷公園で内閣弾劾国民大会が開かれていたが、この決議案が164対205で否決されたことを聞くと、この大会に集まっていた民衆は憤激して国会議事堂を包囲し、構内に入ろうとして官憲と衝突した。軍隊が出動し、警官が抜刀し、記者・民衆を斬った。2月12日夜、警視庁は政友会系毎夕新聞社をとりまく民衆465人を検束した。2月15日、東京朝日の記者芳賀栄蔵は原敬内相私邸前で護衛中の壮士に襲撃され負傷した。 2月18日、呉鎮守府司令官松本和が家宅捜索を受け、3月31日収監された。しかし、2月23日には全国記者大会が開かれ、内相原敬の辞職を要求した。 ヴィッカーズ事件 飯田義一(三井物産) 主任検事小原直による司直の取調べが進むとこの汚職事件はいっそう広がり、3月12日、イギリスのヴィッカースの日本代理店である三井物産重役の岩原謙三が、巡洋戦艦「金剛」をヴィッカースに注文させるため1910年(明治43年)に海軍高官に贈賄した容疑で拘禁され、その後、三井物産の飯田義一・山本条太郎を含めて計5名が起訴された。捜査の結果、当時の艦政本部長で元呉鎮守府司令長官松本和中将が「金剛」の建造に際し、ヴィッカースから三井物産を経由して約40万円の賄賂を受けていたことが判明した。三井物産社長三井高弘(三井八郎次郎)は社長職を引責辞任した。 この間、貴族院は海軍予算7000万円を削減することを可決したが、予算案は両院協議会の不調となり、3月24日不成立となると同時に、山本内閣は総辞職した[注釈 3]。 3月26日から元老の山縣有朋の主導により、元老会議が行われた。西園寺公望は「違勅」を口実として出席しなかった。松方正義は徳川家達貴族院議長や山縣派の清浦奎吾を推薦したが、徳川は辞退し、清浦は海軍の協力が得られなかった(鰻香内閣)[7]。4月9日には大正天皇が山縣自らに組閣を求められたが、山縣は拒否し、元老以外から首相選定の意見を聞かないよう釘を差している[8]。4月10日、大隈重信と加藤高明を提案し、井上馨・大山・松方も賛成した[8]。7回の会議を経て[9]、4月16日にようやく第2次大隈内閣が成立した。
以下、武人である矢野氏側の代弁とする。武人であり先人を尊重する矢野氏においては、天皇と天皇を尊び敬愛する軍人でありまたその後輩であり、自衛隊員を後輩にもつ先輩としては「軍人勅諭」を尊重するのは当然の見解であると思われれる。 ・『軍人勅諭』 (ぐんじんちょくゆ、旧字体:軍人敕諭󠄀)は、1882年(明治15年)1月4日に明治天皇が陸海軍軍人に下賜した勅諭である[2]。正式名称は、『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』(りくかいぐんぐんじんにたまわりたるちょくゆ)[2]。カタカナ交じりの漢文訓読調が一般的だった当時の詔勅としては珍しく、平仮名交じりの和文調になっている[2]。 沿革 山縣有朋の指示で起草西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、1878年(明治11年)10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。 1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に、衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」および参議院の「教育勅語等の失効確認に関する決議」がそれぞれ可決。その失効が確認された[3]。 内容 通常の詔勅が漢文調であるのに対し、変体仮名交じりの和文調の文語体で、総字数2700字におよぶ長文。忠節・礼儀・武勇・信義・質素を軍人が守るべきの五つの徳目とし、また軍人は政治に関与しないように明示している[4]。陸軍では将兵は全文暗誦できることが当然とされた。一方海軍では、「御勅諭の精神を覚えておけばよい。御勅諭全文より諸例則(関連法規や訓令)等を覚えよ」とされることが多く、全文暗誦を求められることは多くなかった。 内容は、前文で『朕は汝ら軍人の大元帥なるぞ』と天皇が統帥権を保持することを示し、「下級の者が上官の命令を承ること、実は直ちに朕が命令を承ることと心得よ」と言い渡し、続けて、軍人に忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五箇条の徳目を説いた主文、これらを誠心をもって遵守実行するよう命じ、果たされれば天皇自身の喜びに留まらず、国民皆これを祝うだろうと述べた後文から成る。 五箇条の忠節・礼儀・武勇という徳目は、江戸時代の武士道の徳目であった儒教朱子学における五倫と五常の影響を強く受けている[5]。また、当時の竹橋事件・自由民権運動の影響を鑑み、「忠節」の項において「政論に惑わず政治に拘わらず」と軍人の政治への不関与を命じ、軍人(現役の兵と職業軍人)には選挙権を与えないこととした。ところが大日本帝国憲法(1890年11月)に先行して天皇から与えられた「勅諭」であることから、海軍と陸軍の一部は軍人勅諭を政府や議会に対する自らの独立性を担保するものと位置づけようとするものもいた[6]。政治への不関与を命じたものと位置づけるのが主流であったが、政党政治に終局をもたらせた暗殺テロ、五・一五事件に代表される急進派も存在した。 戦いに於いては「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」と、「死は或いは泰山より重く或いは鴻毛より輕し[7]」という古諺を言換え、「普段は命を無駄にせず、けれども時には義のため、喩えば天皇のため国のために、命を捨てよ」という意味で解釈された。武士道「葉隠」にあるような個人の尊厳を重視したものと明確に差異がある[5]。 下村定大将(陸士20期)は降伏決定の際、徹底抗戦を望む部下たちに「汝等能く朕と其憂を共にせよ」を敗戦時の心得として説得した[8]という。 「御名」 資料によってはこの勅諭の末尾に「御名御璽」と表記しているものがあるが、この勅諭は明治天皇の署名(印刷物等に表記する場合は「御名」)のみで御璽を捺さずに陸海軍に直接下賜する形式を採った(軍内部には「明治15年陸軍省達乙第2号」として陸軍大臣から布達された)ため、印刷物の場合は「御名」のみ表記されるのが正確である。 ちなみに陸軍においては「御名」を一般的な「ぎょめい」でなく「おんな」と読んだ。山本七平は『私の中の日本軍』の中で、ある衛生下士官が部隊の宴会で酔い、「突撃一番、軍人勅諭はオンナで終わらぁー」と叫んだと記している[9][10]。 その他 梅津美治郎陸軍大将の誕生日は、軍人勅諭が下賜された明治15年(1882年)1月4日である。 戦争中に陸軍上等兵として中支の戦場にいた、後の戦記作家の伊藤桂一は、戦陣訓と軍人勅諭を比較して次のように述べている[11]。 「戦陣訓」にくらべると、明治十五年発布の「軍人勅諭」は荘重なリズムをもつ文体で、内部に純粋な国家意識が流れているし、軍隊を離れて、一種の叙事詩的な文学性をさえ感じるのである。興隆してゆく民族や軍隊の反映が「軍人勅諭」にはある。「戦陣訓」を「軍人勅諭」と比較することは酷であるにしても「戦陣訓」にはなんら灌漑している精神がなく、いたずらに兵隊に押しつける箇条書が羅列してあるだけである。およそ考えられるかぎりのあらゆる制約条項を、いったい生身の兵隊が守れるとでも思ったのであろうか。ともかく「戦陣訓」には耗弱した軍の組織の反映があり、聡明なる兵隊はそれを読んだ時点で、すでに兵隊そのものの危機を予感したかもしれない。 - 伊藤桂一『兵隊たちの陸軍史』新潮文庫、2008年(平成20年) 稲田朋美の防衛大臣辞任の要因となった自衛隊日報問題に際し、元外務省の佐藤優は「自衛官たちが二度とこのような行動をとらないように、自衛隊に軍人勅諭を暗唱させ、軍人勅諭の精神を叩き込んだほうがいいのではないでしょうか」と述べている。
水島氏が水戸学批判をしていたので、こちらもついでに書いておきましょう。 水戸学を引き継いだ長州系テロリストが、吉田松陰を教祖の如く祭り上げ。後に皇国史観から廃仏毀釈、日清、日露、昭和維新から、大東亜戦争にまで行きついたという面は確実にあるので。少々長いですが貼っておきましょう。無論、参考程度に留めおいていただければいいでしょう。明言する必要もなければ、私もそれを望んでいるわけではないので。 そもそも、昭和維新にまで言及したのは、稲垣氏が批判していた原田伊織氏であって。私でもないので。長州藩の会津への復讐は福島原発にまで及んでいますが、こちらはご存じあった方がいいでしょう。台湾、朝鮮ですら国立大学が出来たのは明治。福島で国立大学が出来たのは昭和になってからですが。 原発を福島に誘致したのは、薩長閥でもあるので。私は一概に維新志士を礼賛する気にもなれません。京都は幕末から金払いのよかった長州藩士を贔屓にしていたようですが。同時に共産党員も多かった土地柄でもあるそうで。少々長くなりますがやはり添付しておいたほうがよさそうに思います。明治政府が維新を礼賛し、史実を改竄し、江戸幕府に批判的な物言いをするのは、まあ当然でしょうが。やはりかえって、事実を糊塗するのは戦死者や、殉職者、英霊に失礼なような気にしますので。 ・「会津への夢街道、」より引用 戊辰 の 役 / 殉 難 者 開城後に占領した長州賊徒 (以降は長賊と表記) らは、最初の命令を出した。「戦死者一切、何らの処置を為すべからず、為す者あらば直ちに首を刎ねる」埋葬どころか、移動や触ることすら許さず、野ざらしにした。転がる遺体を裸にし、性器を切り取り、口に押し込むなどの恥辱まで加えた。見かねて埋葬しても、再び掘り起こされ、元の場所に打ち捨てられた。白虎隊士の遺体も例外ではなく、掘り出され、投げ捨てられた。ろくな取り調べもせず処刑し、婦女を見れば乱暴し、金目のものは略奪し、寺の鐘まで持ち出す始末、滝沢峠は奪った品々を運ぶ列が途切れなかったという。斬首をする際は見せしめのため、わざわざ自宅前に連れて行き執行した。 長賊らは、「山狩り」と称して藩士の家族のみならず避難している村人の家族を襲い、強盗・婦女暴行を繰り返した。家族の見ている前で、集団で娘や妻、母たちを強姦し、家族が抵抗すると容赦なく撃ち殺した。8歳の幼児や年寄りまで年齢を問わず女性を見つけるや例外なく凌辱し、「会津に生娘 (処女) 無し」といわれるほどの悲惨さであった。 両足の腿を撃ち抜き動けなくしてから強姦するなど、畜生にも劣る所業が繰り返された。 事が済むと嬲り殺されたり、裸のまま池に沈めて殺されることも多かった。特に、塩川・坂下・新鶴・高田周辺は戦火を免れた婦女子も多かったが、開城し戦いが終わっても途切れることのない輪姦により、虐殺されずに生き残っても ほとんどが妊娠してしまった。 堕胎を試みた多くの女性が そのために亡くなり、生き残った女性は水子を寺の傍らに埋め、小石を載せて目印とした塚に、途切れない涙と共に、咽びながら乳を絞り与えていたという。村人は「小梅塚」「子塚」と呼び、憐れんだ。 開城は9月22日、新暦の11月6日であり、寒く雪がちらつく季節であった。寒さゆえ遺体の損傷は遅かったものの、鳥獣のよい餌食となっていった。やがて、老若男女の区別さえ出来なくなった。 なぜか首のない遺体が、多かったという。翌年2月 (新暦:3月中旬)、春の訪れとともに腐臭が漂い始めた。 日を追って腐敗は進み、死臭が城下を覆う。残留した町野源之助 (主水) 達のみならず、住民からも抑えきれないほど多数の嘆願書が提出された。開城5ヶ月も経って やっとの埋葬は、餞民の手により罪人塚へ葬るというものだった。実際に、戸ノ口原の戦死者33名の遺骸は、小田山傍の罪人塚に埋められた。 不満による不穏な事態を察知し恐れた民政局は、罪人の処刑場であった泪橋近くなら黙認すると回答してきたので、最も近い七日町/阿弥陀寺に埋葬することになった。岡山藩士/三宮耕庵の口添えがあったから、と聞いている。許可したといわれているが、黙認しただけなのである。 「会藩の戦死者を阿弥陀寺に合葬せしは、同寺は藩士の菩提寺であるためだ、という人あるがそれは誤りである。初め会藩の戦死者は其戦死の場所毎に最寄々々に仮葬せしが之を合葬せんと出願せしところ、小田山の西南方畑地俗称五社壇を指定された。しかるに同所は古来藩士の馬や罪人を埋葬せし処にて、余り不浄地なれば他の地所をと出願せしに、然らば藩の処刑場は何れにあるかとの問いに、城西涙橋と答えた。 然らば其近くに葬るべしとの命令なれしば、止むを得ず刑場に近き阿弥陀寺を選んだものである。 忠勇の仏も賊軍あつかいには当時の人も落胆したということである。」遺族や一般人が手を付けることは、最後まで黙認ですら許さなかった。明治2(1869)年2月14日、餞民の手で開始された。遺骸は、ムシロや風呂桶、戸棚などにゴミのように押し込められて運び込まれ、大きく掘った穴に放り込まれた。埋葬したのではなく、埋めたのである。 「棺にも桶にも収めず、百何十人の死体を其まゝ只穴を掘り埋めしなれば、着衣は已に腐れて其模様を認むるに由なく、遺体は腐爛し、眼は腐消し、腐肉より流るる、膏膩は、茶褐色、薄青色、鼠色等を混和したる一種異様に、キラキラ光りて、異様の悪臭を強烈に放ち、其状惨澹を極め、到底筆紙などにて、尽すべき様なし」余りのひどさに、伴百悦などが餞民に身を落とし、手伝うことになる。埋葬は、2か月を要した。 追い打ちをかけるように、墓標などは取り去るよう命令が出る。躊躇していると、長賊ら極悪/民政局によって墓標は倒され、刻まれた文字は削り取られた。個人名の刻まれた墓碑は、後世に建てられたものである。戦死もしくは虐殺された月日・場所が特定できない方々は、いまだに約500人もおられる。町野源之助 (主水) は生き延びて、大正12(1923)年に85歳で亡くなった。 遺言を守った息子/武馬により、友であった殉難者がされたように遺体は菰に包まれ、衆人環視の中、自宅から菩提寺の融通寺まで馬に曳かれて野辺送りをした。無念、悔しさ、悲憤、怨念は、計りしれなかったことを良く表している逸話である。戒名は、「無学院殿粉骨砕身居士 (武孝院殿顕誉誠心清居士)」。 当時の思想として、人は死すると、 ◇ 精神を司る陽の霊気 「魂 (コン、たましい)」 は、天 (冥途) に昇る ◇ 肉体を司る陰の霊気 「魄 (ハク、たましい)」 は、地 (白骨) に留まる と考えられており、埋葬禁止は現在で想像すらできないほどの悪行なのである。よって、日本には古来より、何人なんぴとも 「死ねば成仏」 の思想がある。にもかかわらず無知・無学のテロリスト/長賊らは、そうしなかった。城下すべてが、殉難の地である。
世良 修蔵 (せら しゅうぞう)は、幕末の長州藩士。奇兵隊士として鳥羽・伏見の戦いに参加した。その後、奥羽鎮撫総督府下参謀となり、会津藩討伐を主張した。新政府軍方への密書の内容に激怒した仙台藩士によって暗殺された。その死によって、当初受理されていた会津藩の助命嘆願が撤回され、会津戦争で徹底攻戦される原因となった。 生涯 天保6年(1835年)、 周防国大島郡椋野村の庄屋・中司家の子として誕生。 17歳の時、萩藩の藩校である明倫館に学び、後に大畠村で月性の時習館(清狂草堂)に学ぶ。さらに江戸で儒者・安井息軒の三計塾に学び、塾長代理をつとめた。その後、周防国阿月領主・浦靱負が開設した私塾・克己堂の兵学などの講師として仕官し浦家の家臣(陪臣)となった[注釈 1]。 下関戦争敗戦後に長州藩において奇兵隊が組織されると、後に3代目総督となる同郷・同門の赤禰武人の招聘を受けて、文久3年(1863年)ごろに奇兵隊に入隊し、奇兵隊書記となる。 慶応元年(1865年)の第二奇兵隊発足に伴い軍監に就任。慶応2年(1866年)、赤根が佐幕派に内応したとの疑惑を受けて脱走すると世良も関与を疑われ謹慎処分となったが、同年4月に発生した第二奇兵隊の倉敷浅尾騒動事件を受けて隊内の安定のため復職している。この際、浦家の家臣である世良家の名跡を継いだ。 江戸幕府による第二次長州征伐が行われると第二奇兵隊を率いて抗戦し、同年6月の大島口において松山藩を中心とした幕府軍相手に勝利を収めた。停戦後は萩の海軍局へ転出し、また京都で薩摩藩などとの折衝に当たったが、慶応4年(1868年)1月、幕府方との鳥羽・伏見の戦いに際し前線に復帰し、長州庶民軍である第二中隊(第二奇兵隊)や第六中隊(遊撃隊)を指揮して戦い、新政府軍の勝利に貢献している。特に1月6日(1月30日)の戦闘において世良率いる別働隊が八幡山の旧幕府軍陣地を突破する活躍をした。 会津討伐と世良暗殺 その後は薩摩の黒田清隆、長州の品川弥二郎に代わり、薩摩の大山格之助と共に新政府の奥羽鎮撫総督府下参謀となり、戊辰戦争においては、同年3月、会津征伐のために総督・九条道孝以下五百余名と共に派遣され、3月23日、仙台藩の藩校養賢堂に本陣を置いた[1]。会津藩に同情的で出兵を躊躇う仙台藩に対して強硬に出兵を促し[2]、また仙台藩士を嘲り[注釈 2]、傍若無人な振る舞いもあるなど[注釈 3]、次第に周囲からの反感を高めていく[注釈 4]。 4月25日、総督府は会津藩を寬典に処するの意思を伝え降伏を勧告するも、会津は返答を引き延ばした上、閏4月15日に文書で「謝罪仕間敷覚悟」(謝罪をするつもりはない覚悟)と返答した[9] 。 総督府や明治新政府、その中でも木戸孝允や世良ら長州閥が、会津藩への恨みから藩主である容保の首級を要求したという説は、後世の創作による誤解である。 世良が奥羽鎮撫総督府下参謀に就任する前から東征大総督府下参謀・林通顕により会津死謝という方針は既に決定していた。 (閏でない)4月29日、仙台藩家老の坂時秀・但木土佐・真田喜平太、米沢藩家老の木滑要人・片山仁一郎・大瀧新蔵が、会津藩家老の梶原平馬と会談し、会津藩の降伏条件について議論した[10]。その時、但木土佐は「鳥羽・伏見の戦いの首謀者の首級を差し出すべき」と主張し、強い説得の末、会津藩家老の梶原平馬はその場では承諾したものの、最終的(閏4月15日)に会津藩はこの降伏案を拒否した形となった。 閏4月12日、仙台藩・米沢藩による会津救済嘆願があったものの[注釈 5]、前述のように閏4月15日に会津から拒否されていることを受け、世良ら総督使はあくまで武力討伐せよという強硬姿勢をとった[注釈 6]ため、会津救済の可能性は失われた[注釈 7]。そのため、東北諸藩は薩長の軍門に下り会津征伐に向かうか、奥羽越列藩同盟の名において薩長に宣戦布告するかの選択を迫られる状態となった[13]。 さらに福島城下の金沢屋に宿泊した[注釈 8] 世良が当時新庄にいた下参謀・大山宛てに閏4月19日(6月9日)に記した密書(「奥羽皆敵ト見テ逆撃之大策ニ至度候ニ付」と書かれていた)[15] [注釈 9]を、送付の依頼を受けた福島藩士・鈴木六太郎を通じて入手した仙台藩士・瀬上主膳、姉歯武之進はその内容に激昂し、世良の暗殺実行を決意する[注釈 10]。また世良の暗殺計画は、閏4月14日(6月4日)には仙台藩主席奉行・但木土佐らの承認を受けていた[注釈 11]。 閏4月20日(6月10日)未明、世良修蔵と報国隊の勝見善太郎は金澤屋で就寝中に、姉歯武之進・田辺覧吉・赤坂幸太夫・松川豊之進・末永縫殿之允・大槻定之進の仙台藩士6名、遠藤条之助・杉沢覚右衛門・鈴木六太郎の福島藩士3名、福島町の目明かし浅草屋宇一郎とその手先14 - 15名の合計24 - 25名に襲われた。2階から飛び降りた際に瀕死の重傷を負った[17]上で捕縛された世良は、同日朝、勝見と共に阿武隈川河原で斬首され、遺体は阿武隈川へ投げ捨てられた[18][注釈 12][注釈 13]。 妻・千恵との間に一女があったが幼くして亡くなっており、子孫は絶えている。 首級は真田信繁菩提寺である月心院(白石市)に埋葬されたが、明治3年(1870年)陣場山に改葬、同8年(1875年)宮城県が墓碑を建立した[19]。明治9年(1876年)の明治天皇東北巡幸の際には、木戸孝允と当時の磐前県令村上光雄が献灯している。墓碑には「奥州信夫郡福島駅□□所殺年三十四」と刻まれていて、「為賊」とされる□□の部分が削られているが、これは明治22年(1889年)2月の大赦により賊でなくなったため、白石町庁で削除したとされる[20]。
世良修蔵ー2 その後の戦況 世良暗殺の報は諸藩重臣の集う白石会議の場にも届き、その場に居た米沢藩士・宮島誠一郎の日記によると、「満座人皆万歳ヲ唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉ニ不止」という状況であったという[21]。世良と勝見の首は白石城へ送られ、2人の首を会津藩へ持ち帰りたいと懇願した会津藩士の中根監物、辰野勇には2人の髻を持ち帰らせた。但木土佐は当初2人の首を児捨川へ投げ捨てるように命じたが、世良の首は寺へ葬られたという。世良の所持品の刀1振、短刀1振、本込ミニイール1挺、ピストル1挺、セコント1ツ、蟇口1ツ、紺島木綿單物1枚、蒲色の風呂敷1枚、金50-60両は、暗殺に協力した者達に赤坂幸太郎から配分された[18]。 仙台藩奉行・坂時秀は、宇都宮方面からの政府軍が、重要拠点と考えていた白河小峰城に入城する前にこれを奪うべきではないかと考え、会津藩家老・梶原平馬に書を送った。これを受けた会津藩は、世良が暗殺されたのと同日の閏4月20日、白河城を攻撃し奪取する(白河口の戦い)。この仙台藩強硬派が仕掛けた二つの出来事は、以後の奥羽諸藩全体の方向決定に大きな影響を与えた[22]。 同日の閏4月20日昼、仙台藩と福島藩は、両藩の裏切りを知らずに金澤屋へ帰宿した長州藩士の松野儀助を捕縛・斬首して金品を奪い、同日夜には世良の馬丁の繁蔵も長楽寺で背後から斬殺した。閏4月21日、福島町の江戸口付近を醍醐忠敬参謀らと共に北行中だった醍醐参謀附士の長州藩士野村十郎を、仙台藩士平田小四郎が背後から斬殺し、遺体を阿武隈川へ投げ捨てた。同参謀附士の長州藩士中村小次郎も白河口の戦いで足に重傷を負って籃輿で福島へ向かう途中に伏拝坂付近で、介抱を装って付き添って来た仙台藩士の栗村五郎七郎と岡崎堅守に左右から刺殺された[18][23]。 慶応4年8月29日(1868年10月14日)、仙台藩主伊達慶邦は新政府への謝罪降伏の件を歎願しようと正使氏家兵庫と副使堀省治を熊本藩陣中へ遣わし、熊本藩は津田山三郎と米田虎之助が応対した。この仙台藩の降伏交渉の際[24][25]、仙台藩側は「会津藩が手を尽くして本物のように見せ掛けた(拵えた)世良修蔵の偽手紙に仙台藩を滅ぼすと書いてあったので、会津藩に味方すると決めて世良修蔵を殺害してしまったが、仙台藩には朝廷に背く意思はない」という趣旨の弁明をし、世良修蔵の名で書かれた慶応4年閏4月19日(1868年6月9日)付けの大山格之助下参謀宛て密書は、会津藩が作成した偽手紙であったと述べている[26]。また、福島城下・金沢屋について遊廓・妓楼などと記した文献もあるが、実際には旅籠であった[注釈 14]。 ・戊辰戦争研究家の山田 野理夫氏の「東北戦争」によると世良修蔵を悪者にするために密書に手が加えられている可能性を指摘している。明治31年(1898年)、従四位を追贈された[28]。
二本松少年隊 (にほんまつしょうねんたい)は、幕末の二本松藩において戊辰戦争に出陣した12歳から17歳の少年兵部隊。幕府側で戦った。ただし、会津藩の白虎隊と違い当時は隊名がなく、二本松少年隊と名づけられたのは戊辰戦没者五十回忌に刊行された「二本松戊辰少年隊記」からである。 概要 戊辰戦争への出陣は14歳未満では不可能なのだが、二本松藩には危急の際には年齢を2歳加算する入れ年(実年齢より高い年齢として出兵の許可を出す)という独自の制度があり、最少年齢の隊士の年齢は12歳となってしまった。 八番組組頭・丹羽右近率いる大壇口守備隊の大砲方銃士隊[1]として編成されていた木村銃太郎指揮下の25名が特に有名である。木村は、藩の西洋流(高島流)砲術師範(元は同じ砲術の武衛流師範で後に江戸留学の際に西洋流(高島流)砲術を習得した人物であり、隊士は彼の父・木村寛治の開いた木村道場の塾生であった。26日朝ないし27日朝[2]に編成を命じられ、27日夜に編成を完了した。大壇口での戦いにおいて木村をはじめその多くが戦死した。負傷し新政府側の野戦病院として使用されていた称念寺に運ばれた者もいたが、やがては息絶えてしまった。これらの出来事は、戊辰戦争における悲劇のひとつとして知られている。 戊辰戦没者五十回忌では、少年のみで構成されていた木村隊の21名に別隊からの編入者4名を加えた25名を指すものとしていた。ただし、藩内各地に出陣した他の隊でも主に鼓手として少年兵が所属しており、1926年(昭和元年)に刊行された「二本松藩史」以降は彼らも包括して二本松少年隊と定義することとなった。現在では、紺野庫治氏の最終調査研究結果報告、1981年(昭和56)に刊行された『絵でみる二本松少年隊』により明らかとなった高根三右衛門隊3名、丹羽右近隊2名、大谷与兵衛隊2名、大谷志摩隊2名、大谷鳴海隊2名、日野大内蔵隊2名、樽井弥五左衛門隊4名、朝河八太夫隊1名、その他所属部隊不明の22名を加えた合計62名を定義している。なお、当初木村隊のそれは幼年隊と呼称されていたようである[3]。 「二本松の戦い#落城」も参照 二本松藩主・丹羽氏の菩提寺でもある大隣寺に戦死者16名の墓所がある。また二本松城跡である霞ヶ城公園には群像彫刻や顕彰碑が立っている。 陣羽織二本松少年隊大壇口出陣者名(隊長、副隊長、他25名) 隊長 ★木村銃太郎 22歳 副隊長 ★二階堂衛守 22歳 12歳 ☆久保豊三郎 13歳 上田孫三郎 ★高橋辰治 ★徳田鉄吉 ★岡山篤次郎 ☆大島七郎 ☆小川安次郎 ★遊佐辰弥 後藤釥太 高根源十郎 14歳 ★成田才次郎 成田虎治 武谷剛介 全田熊吉 宗形幸吉 馬場定治 水野進 鈴木松之助 ★木村丈太郎 渡辺駒之助 15歳 ★奥田午之介 ☆久保鉄次郎 ☆三浦行蔵 安部井壮蔵 17歳 ★大桶勝十郎 ☆は負傷者、★は戦死を示す。 うち高根源十郎と安部井壮蔵は同じく丹羽右近隊隷下の別の隊の所属であったとされる。奥田午之介は高根三右衛門隊、久保鉄次郎は大谷鳴海隊であったが木村隊に編入された[4]。 12歳の久保豊三郎と、15歳の久保鉄次郎は兄弟であり、兄・鉄次郎は病弱でありながらも、「豊三郎までがいったのに、おめおめとねている訳にはいきません」と言って母親を振り切り、弟のあとに続いたという。その後2人は負傷して称念寺に運ばれたが、おたがいのことを知らないままに11月1日に弟の豊三郎が、12月6日に鉄次郎が亡くなったとされている[5]。 また、岡山篤次郎は大壇口で戦死したとされるが、意識不明のところを土佐藩兵によって運び込まれ、同日の夕刻に死亡したともいわれる。土佐藩兵たちは岡山の最期に心を打たれ、反感状を送った他、「君がため二心なき武士の 命は捨てよ名は残るらん」との弔歌を詠んだ[6][7]。 生存者のうち、三浦行蔵は、豆畑で倒れていたところを下川崎村の忠八という農民に助けられ、彼の自宅にて介抱された[8]。だが、仲間や隊長が戦死した中で生き残ったことを恥じ、数年後忠八が少し目を離したすきにいなくなっていたという。 水野進は好之と名を改め、竹根小学校長、二本松町助役、安達郡会議員、二本松電気・仙台電気常務役などを歴任して二本松の復興に尽力し、また「二本松戊辰少年隊記」の編纂など、少年隊の歴史の記録に努めた。安部井壮蔵は香木と名を改め、陸軍少尉に任官。乃木希典率いる歩兵第14連隊第2大隊第1中隊所属[† 1]となり、西南戦争にて戦死した。 木村隊以外の生存者では、加藤犬蔵は月岡吉則と改名し西南戦争に参加、大谷与兵衛隊の山岡房次郎は南次郎と改名し、福島県医師会名誉会長を務めた。 軍装 元隊士・水野進(好之)によれば、服装は以下の様なものであったという[9]。 上衣は呉絽または木綿の筒袖であり、着丈は短く膝までであった。木滝幸三郎によれば、視認性を下げるため多くは黒く染めていたという[10]。その上から力紗羽織や陣羽織を羽織った。力紗羽織の地質は絹呉絽(アルパカ)であり、普通の羽織を筒袖とし、背の縫い目半分ぐらい裂けたものである。兵糧袋は呉絽であり、長円形の袋の前後に縁を付け、紐を通して屈伸を自在として肩掛けとしていた。肩印の地質はは麻布で、長さ三寸、巾一寸五分ぐらい、中央に丹羽氏の違棒紋を書き、一方に鯨または竹を当て、その中央を紐で括り、左の肩先に結びつけた。 下衣は一定せず、洋袴、股引、義経袴、立付など様々であった。 帽子は用いず、白木綿の鉢巻きを締め、髪は髻を打ち糸で結び、背に下げた。 装備は四斤山砲一門、各自ミニエー銃を所持していた。 二本松少年隊を歌った楽曲 『二本松少年隊賛歌』(1939年)湯浅大太郎作詞、関屋敏子作曲 『二本松少年隊の歌』(1940年)塚本篤夫作詞、永井巴作曲、倉若晴生編曲、唄:高田浩吉(松竹映画「二本松少年隊」主題歌) 『二本松少年隊』(1957年) 野村俊夫作詞、古関裕而作曲、唄:伊藤久男 『花の二本松少年隊』(1962年) 野村俊夫作詞、市川昭介作曲、唄:こまどり姉妹 『二本松少年隊』(1965年)高橋掬太郎作詞、細川潤一作曲、唄:三橋美智也(第16回NHK紅白歌合戦で歌唱) 『二本松少年隊の歌』丘灯至夫作詞、南雲一廣作曲、唄:佐々木人水 『二本松市民の歌』(1965年)丘灯至夫作詞、戸塚三博作曲。※3番の歌詞に歌われている[11]。 琵琶歌『二本松少年隊』[12](1935年) 琵琶歌『二本松少年隊』[13](2018年)古澤月心作詞作曲 『鳴呼、二本松少年隊』小林金次郎作詞、本間繁義作曲 民謡『ああ二本松少年隊』平多正於作詞、小林蔵雄作曲、唄:藤みち子
・会津藩 (あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。別名に会藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は後の陸奥国北会津郡全域と耶麻郡、河沼郡の大部分、大沼郡の一部及び安積郡の一部、越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。後の南会津郡全域と河沼郡の一部及び大沼郡の大部分は南山御蔵入領と呼ばれる天領であったが預地として実質的に統治した。別途越後国内にも領地が点在していた(後述の『領地』を参照)。 戊辰戦争 第8代容敬は養子藩主であったが、英明な藩主で親政して改革を行ない[47]、幕末における会津藩の基礎を築き上げている。容敬は嘉永5年(1852年)2月に死去し、容保が第9代藩主を継いで[47][46] 幕末の動乱期を迎えた。安政6年(1859年)、北方警備のため徳川幕府から根室・紋別を譲渡される。 文久2年(1862年)閏8月に容保は京都守護職となり[48]、更に新撰組を麾下に置いて(新撰組は、その後会津戦争まで会津藩の隷下にあった)会津藩士ともども尊攘派志士の取り締まりや京都の治安維持を担った。文久3年、友好関係にあった薩摩藩と連携して、朝廷に強い影響力を持っていた長州藩を八月十八日の政変で追放する。その後に行われた参預会議では、薩摩藩の国父・島津久光が提案する公武合体論に賛同するなどしたが、久光と将軍後見職・徳川慶喜の対立によって会議は瓦解した。 当時、容保は京都守護職を退いていたが、会議崩壊後に復職し、容保の実弟で京都所司代に任命された松平定敬(桑名藩主)、禁裏御守衛総督に任命された徳川慶喜と連携して、政局を動かすほどの立場となった(一会桑政権)。一方で、西南雄藩の国政参加も阻止した為、これまで友好関係にあった薩摩藩とも対立するようになった。元治元年8月、昨年追放された長州藩が挙兵した為、会津藩も出陣して京都で睨み合いとなる(禁門の変)。会津藩は蛤御門で長州藩兵と戦い、敵の突破を阻止した。後に容保は、会津藩を頼りとしている旨が記された「御宸翰ごしんかん」を孝明天皇より賜った[49]。 変後、長州藩の処分を求めて、二度の長州征伐を主導した。完全な武力討伐となった第二次長州征伐では京都の守備を担当する。しかし、出兵した幕府軍は各地で長州軍に撃破され、さらに将軍徳川家茂が大阪城で病没する事態に見舞われる。不利を判断した徳川慶喜によって停戦となったが、征討側の城と領土が逆に占領されるなど事実上の敗戦となった。慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が崩御、慶応3年10月14日の大政奉還により、江戸幕府が消滅。 慶応3年12月9日には薩摩藩・尾張藩・越前藩・土佐藩・芸州藩の五藩による政変が起こり、王政復古の大号令が発令されて新政府が誕生した。従来の親幕府派であった公家が排除され、王政復古前に復権した長州藩が新政府に加わるなど、今度は会津藩が追放される形となり、大阪城に退いた。そのやり方は皮肉にも、かつて長州藩を追放する為に起こした八月十八日の政変と同じ物であった。 慶応4年、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発すると、桑名藩や旧幕府軍とともに薩長を中心とする新政府軍と戦ったが敗北。この戦の結果、朝廷は会津藩を「朝敵」とした。その後の東北戦線において、会津藩は奥羽越列藩同盟の支援を受け、庄内藩と会庄同盟を結ぶなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(会津戦争)に敗北して降伏した。近年では、列藩同盟総裁中将の役職に松平容保が就いていたとする説もある[50]。 なお、戊辰戦争の直前及び交戦中には庄内藩とともに、当時のプロイセン王国に対して、駐日代理公使マックス・フォン・ブラントを通じて蝦夷地(北海道)に持つ所領の割譲を提案し、その見返りとして兵器・資金援助や軍事介入を得ようとしていたことが分かっている。普仏戦争の直前で余裕がなかったことからオットー・フォン・ビスマルクによって1度は拒否されたが、3週間後に一転して認可された。しかし既に会津藩の降伏から6日、庄内藩主が降伏を申し出てから5日経過しており現実には交渉そのものが意味をなさなくなっていた[51][52]。 降伏により、会津藩領は会津松平家から没収された。藩主の容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。 明治2年(1869年)9月28日に容保の嫡男慶三郎(容大)は家名存続が許され、華族に列せられるとともに、3万石を陸奥国内に改めて下賜された[53]。明治3年(1870年)5月15日、容大は陸奥国斗南(現在:青森県むつ市)の斗南藩の知藩事とされた[54][55]。また藩士数名は、アメリカ合衆国カリフォルニア州に移住した。 一方、廃藩置県を前に、会津藩の旧領は明治政府民政局による直轄地とされ、若松城下に明治政府民政局が設置された。明治4年7月14日(1871年新暦8月29日)の廃藩置県では、会津地方は若松県となったものの、明治9年(1876年)8月21日には福島県1876年以前(旧の二本松藩など)と磐前県(旧の磐城平藩と中村藩)と合併され、福島県に入れられた。 廃藩置県後 容保の家系からは初代参議院議長の松平恒雄・雍仁親王妃勢津子父子、福島県知事の松平勇雄や、徳川宗家第18代当主徳川恒孝が出ている。元白虎隊兵士の 山川健次郎は戦後にアメリカへの国費留学生に選抜され、 イェール大学で物理学の学位を取得して帰国している。帰国後に日本人として初の物理学教授になった後に東京帝国大学(東京大学の前身)に登用された。その後に理科大学長・総長、九州帝国大学(九州大学の前身)初代総長、私立明治専門学校(九州工業大学の前身)総裁、京都帝国大学(京都大学の前身)総長、旧制武蔵高等学校(武蔵中学校・高等学校の前身)校長、貴族院議員、枢密顧問官を歴任するなど重用された[56]。 福祉 会津藩は日本初となる老齢年金制度を創設した藩であった[57]。開始されたのは寛文3年(1663年)で保科正之の時代であり、正之は藩内の90歳以上の老人に対して金銭ではなく米で1日5合、年間では約1石8斗、米俵で4俵半(約270キログラム)を支給した[57]。当時の会津藩で90歳以上の高齢者は町人で男子は4人、女子は7人、村方では140人と合計すると155人以上おり決して少ない負担ではない[57]。また正之は支給すべき者が高齢なため、歩行できたりする健常者は自ら支給を受け取りに来るよう命じたが、健常者でない者は子や孫が受け取りに来ることも認めていた[57]。 危機管理 保科正之は凶作による飢饉に備えて明暦元年(1655年)に社倉制度を開始した[58]。これは藩で米を7000俵余り買い入れて各代官に預け、翌年から通常よりかなり低率の2割の利子で困った百姓に貸し付け、その利子で年々蓄えるべき米を増やして凶作の備えとしたのである[58]。また実際に飢饉が起こり、病人や工事人足、新田開発者や火災被害者などには無償で提供する例もあった[58]。保科正之は各村に社倉と呼ばれる倉を創設して収納し、備蓄米は最大で5万俵になり、領内の23箇所に社倉が建設された[58]。
維新政府が腐敗していた点と会津藩及び当時の佐幕派への復讐劇の実態と報復ー1 ・佐川 官兵衛 (さがわ かんべえ)は、幕末の会津藩士。明治時代の警察官。字は勝、諱は直清[1]。 明治 旧会津藩が斗南藩として再興されると、青森県三戸郡五戸町へ移住した。廃藩後は川路利良の懇請により警視庁に出仕し、一等大警部に任命された。明治10年(1877年)の西南戦争では戦役初期より豊後口第一号警視隊一番小隊長[2]として従軍し、豊後から熊本県阿蘇郡に転戦、同地における二重峠の戦いにおいて被弾、戦死した。享年47。墓は大分縣護國神社と福島県喜多方市の長福寺にある。 人物 性格は直情的だが人情に厚く、多くの会津藩士から信頼されていた。武勇に秀で、薩長から「鬼の官兵衛」、「鬼佐川」、「鬼官兵衛」と恐れられた。 西南戦争で進駐した南阿蘇では官軍の略奪行為を厳しく戒め、地元民に慕われたと言う。南阿蘇には十数カ所の佐川官兵衛慰霊碑が存在する[3]。 ・斎藤 一 (さいとう はじめ、旧字体:齋藤󠄁 一、天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年)9月28日)は、日本の武士(新撰組隊士)、警察官。階級は警部。勲等は勲七等青色桐葉章。 幕末期に新撰組で副長助勤、四番隊組長、三番隊組長、撃剣師範を務める。一時期御陵衛士に入隊。戊辰戦争では旧幕府軍に従い新政府軍と戦う。明治維新後警視庁の警察官となり、西南戦争では警視隊に所属して西郷軍と戦う。 退職後、東京高等師範学校(東京教育大学を経た、現在の筑波大学)の守衛、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)の庶務掛兼会計掛を務める[1]。出自、経歴は不明な点も多い。 新選組 文久3年(1863年)3月10日、芹沢鴨・近藤勇ら13名が新選組の前身である壬生浪士組を結成。同日、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩主・松平容保の預かりとなる。新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。後に長州征討に向け再編成された新選組行軍録には三番隊組長として登場し、撃剣師範も務める。 元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では、土方歳三隊に属し、事件後幕府と会津藩から金10両、別段金7両の恩賞を与えられた。 新選組内部での粛清役を多く務めたとされ、長州藩の間者(スパイ)であったとされる御倉伊勢武、荒木田左馬之助のほか、武田観柳斎らの暗殺に関与したとも言われるが、事実と符合しないことも多い。 慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎が御陵衛士を結成して新選組を離脱すると、斎藤も御陵衛士に入隊する。間者として潜入していたとされる[7][8]。新選組に復帰する際、御陵衛士の活動資金を盗んで逃げた。これは金に困って逃げたように見せかけるためであったとされる[7][8]。稗田利八の述懐によれば、斎藤が新選組に戻った際、「副長助勤斎藤一氏、公用をもって旅行中のところ、本日帰隊、従前通り勤務のこと」と掲示が出ていたという[9]。新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は、斎藤が復帰の際にもたらした情報に基づいて起きたともいわれる。 同年12月7日、紀州藩の依頼を受けて、同藩士・三浦休太郎を警護し、海援隊・陸援隊の隊員16人に襲撃される(天満屋事件)。三浦とともに酒宴を開いていた新選組は遅れをとり、宮川信吉と舟津釜太郎が死亡、梅戸勝之進が斎藤をかばって敵の刃を抱き止め、重傷を負うなどの被害を出した。斎藤は鎖帷子を着ており無事であった。三浦は顔面を負傷したものの命に別状は無かった。 将軍・徳川慶喜の大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争に参加する。慶応4年(1868年)1月に鳥羽・伏見の戦いに参加、3月に甲州勝沼に転戦。斎藤はいずれも最前線で戦った。近藤勇が流山で新政府軍に投降したあと、江戸に戻った土方歳三らとともに国府台で大鳥圭介率いる伝習隊や秋月登之助と合流の後、下妻へ向かった[10]。土方は同年4月の宇都宮城の戦いに参加、足を負傷して戦列を離れ、田島を経由して若松城下にたどり着いた。 斎藤(24歳)ら新選組は会津藩の指揮下に入り、閏4月5日には白河口の戦いに参加。8月21日の母成峠の戦いにも参加した。敗戦により若松城下に退却。土方と合流したのはこの退却の最中、猪苗代でのことだった。その後、土方らは庄内へ向かい、大鳥ら幕軍の部隊は仙台に転戦したが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続けた。9月22日に会津藩が降伏したあとも斎藤は戦い続け、容保が派遣した使者の説得によって投降した。降伏後、捕虜となった会津藩士とともに、最初は旧会津藩領の塩川、のち越後高田で謹慎生活を送った。
前コメントは現在なら、ネットで調べられるかと思いますが吉田茂は、アメリカではなく軍部から、正確には陸軍から日本は独立したと言ったそうです。日本では日本は独立したと言ったそうですが。翻訳は正文ではないので、日本人にはわかっていないようです。諸国の大使や代表者が日本を独立国として認めていないというのは常識のようですが。ご参考に。また、国内法の憲法より、対外条約のほうが優先されるのは、幕末の関税自主権と治外法権の例でご存じでしょうが。現況も変わらないようです。憲法改正に水を差すような意図はありませんが。現在は安藤氏が指摘した護憲が適切でしょうご存じでしょうが。エマニエルのロボットと化している自民政権を糾弾する意図もまあわかりますが念の為。 「恵さん」は、発達障害の児童を持つ、子供3人のお母さんですので、もしお越しになられたら、ご配慮を願います。本人は「代」、「とろりん」の二名のキラ氏のライブ動画で、陰口を言っているのに嫌気がさしたそうで、解除、「ひのきのみ」「きらりんのみ」「関西国守」とうとうは登録を解除したとのことでしたが、まあこちらに来られたら、令和を支持する人物ですが特に令和を押すことがあれば別でしょうが。特にそういうことはしていないので。政治や党派意識以前に。以前に子育てを素手に完了した女性として格別な配慮願います。このあたりは、男性連中はまったくあ当てにならないので。 補記 吉田 茂 (よしだ しげる、1878年〈明治11年〉9月22日 - 1967年〈昭和42年〉10月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従一位。勲等は大勲位。旧姓・竹内。 生い立ち 1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)[注釈 1]に生まれる[2]。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった[1]。実母の身元はいまでもはっきりしない[1]。竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだ[1]。 吉田の実父と養父は若い武士として1868年(慶応4、明治元年)の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった[3]。その養母は徳川期儒学の所産であった[3]。1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる[2]。ジョン・ダワーによると、「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」という[4]。養父・健三が40歳で死去し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した[2]。吉田はのちにふざけて「吉田財閥」などと言っている[5]。 ・ ・吉田 健三 (よしだ けんぞう、嘉永2年(1849年) - 明治22年(1889年)12月1日[1])は、日本の江戸時代後期の武士(福井藩士)、明治期の実業家。 昭和期の内閣総理大臣・吉田茂は養子、英文学者・吉田健一は養孫に当たる。 来歴・人物 1849年、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として誕生する。のち、絶家していた渡辺家の一門・吉田家を再興した。1864年に脱藩して大坂で医学を、次いで長崎で英学を学んだ。1866年にはイギリス軍艦でイギリスへ密航し、2年間、同国に滞在して西洋の新知識を習得した。 1868年に帰国。一時新潟に居住するが、のち横浜に移って英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長に就任し、日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげる ・ジャーディン・マセソン・ホールディングス (英語: Jardine Matheson Holdings Limited, 中国語: 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社。 米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社のランキング「フォーチュン・グローバル500」(2009年度版)では世界411位。創設から170年たった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持っている。 概要 ジャーディン・マセソン・ホールディングス(英語: Jardine Matheson Holdings Limited, 中国語: 怡和控股有限公司)は、香港にヘッドオフィス(登記上の本社はバミューダ諸島・ハミルトン)を置くイギリス系企業グループの持株会社。 米誌フォーチュン誌の世界企業番付上位500社のランキング「フォーチュン・グローバル500」(2009年度版)では世界411位。創設から170年たった今日でも、アジアを基盤に世界最大級の国際コングロマリット(複合企業)として影響力を持っている。 概要 1840年に、多数のアヘン中毒患者であふれた清と、清へのアヘン密輸と販売で巨額の利益を得ていたイギリスとの間でアヘン戦争が始まると、本社を当時無人島だった香港に移した。アヘン戦争後に設立された「香港上海銀行(HSBC)」は、ジャーディン・マセソン商会などイギリスのアヘン商人が、清でのアヘン密輸・販売で得た利益を香港からイギリス本国へ送金する業務をおこなっていた銀行である[1][2][3]。 1840年から2年間にわたるアヘン戦争では、ジャーディン・マセソン商会は清でのアヘン密輸の利益を守るべくイギリスでロビー活動を行い、イギリスの国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。結果、アヘン戦争はイギリスの圧勝に終わり、1842年に南京条約が締結され、この事実上の不平等条約で、香港はイギリスのものとなり、さらに清はイギリスに対して賠償金2,100万$を4年分割で支払うこととなった。ジャーディン・マセソン商会は、従来通り、清でのアヘン販売を続行できることとなった[1]。 幕末・明治期の日本における歴史 かねてより沖縄や台湾、長崎の中国人商人を通じて日本の物品を密貿易していた同社は[4]、江戸幕府が1853年の日米和親条約を皮切りに、1854, 1855, 1856年と立て続けに日英、日露、日蘭和親条約を締結し、長崎港と函館港を開港すると、1859年(安政6年)に、上海支店にいたイギリス人ウィリアム・ケズィック(ウィリアム・ジャーディンの姉の子)を日本に派遣した。ケズィックは西洋の織物、材木、薬などを持ち込み、日本からは石炭、干し魚、鮫皮、海藻、米などを購入、ビジネス的には成功とは言えなかったが、日本製絹の品質の高さに将来性を抱き、1860年初頭に、横浜居留地1番地(旧山下町居留地1番館、現山下町一番地)に「ジャーディン・マセソン商会」横浜支店を設立した[4]。長崎居留地ではデント商会に先を越されたが、横浜でその仇を返した形となった。後に吉田茂の養父・吉田健三が一時期、同社横浜支店長を務めていた。 鹿島によって建設された横浜初の外国商館である社屋は、地元民から「英一番館」と呼ばれた。跡地には現在シルクセンター(国際貿易観光会館)が建っている。 長崎でも、1859年9月19日(安政6年8月23日)に幕末・明治期の重要人物であるトーマス・ブレーク・グラバーが「ジャーディン・マセソン商会」長崎代理店として「グラバー商会」を設立。グラバー商会は、江戸幕府や西南雄藩の艦船・武器購入をめぐる取引に主要な地位を占めた[5]。また薩摩藩の貿易計画や同藩士のイギリス留学の資金調達に重要な役割を果たした[5]。また1863年(文久3年)の長州五傑のイギリス留学の際には商会支店長だったS.J.ゴーワー(Samuel J. Gower. 1862-1865滞日)が出航の手配をした[6]。
・トーマス・ブレーク・グラバー (英: Thomas Blake Glover、1838年6月6日 - 1911年12月16日)は、スコットランド出身の商人。トマス・ブレイク・グローバーとも表記。 武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。 維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。造船・採炭・製茶貿易業を通して、日本の近代化に貢献。国産ビールの育ての親。 キリンビールの麒麟は麒麟像と坂本龍馬を指しているとの説もある。彼をスコットランド系のフリーメイソンリーとする説があるが、記録はない。グラバー邸内にはコンパスと定規を組み合わせたフリーメイソンリー特有のマークが刻まれた石柱があるが、これはもともとグラバー邸にあったものではない。フリーメイソンリーのロッジ(集会所)にあったものが1966年(昭和41年)に長崎市に寄贈され、長崎市によって観光目的で移設されたものである。長崎市もこの経緯を認めている[2]。薩長が倒幕で使用した武器・弾薬、艦船などの7割近くをグラバーが調達したともいわれる[9]。伊藤博文は、明治政府の高官となってからもグラバーと接触を保ち、私的にグラバーに意見を求めることもあったという[10]。 ・長州五傑 (ちょうしゅうごけつ)は、江戸時代末期(幕末)の1863年に長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。 概要 駐日イギリス領事であったエイベル・ガウワーや、ジャーディン・マセソン商会(横浜・英一番館)のウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)、武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー商会)らの協力を得て成し遂げられた。イギリス留学中は、ジャーディン・マセソン商会創業者の一人ジェームス・マセソンの甥にあたるヒュー・マセソン(マセソン商会社長、ジャーディン・マセソン商会取締役)が世話役となった。 ・薩摩藩第一次英国留学生 (さつまはんだいいちじえいこくりゅうがくせい)は、慶応元年(1865年)に日本を密出国し、英国へ渡った19人の薩摩藩士から成る「薩摩藩遣英使節団」のうち、学生として現地で学んだ15名のこと。 概要1863年の薩英戦争を機に、薩摩藩では海外に通じた人材養成の気運が高まった。薩英戦争でイギリス軍の捕虜となった五代友厚は、翌1864年に、欧州への留学生派遣を強く推す富国強兵策「五代才助上申書」を藩に提出し、薩摩藩洋学校「開成所」教授の石河確太郎も大久保利通に開成所の優秀な学生の派遣を上申した[1]。開成所は、薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として、洋式軍制拡充の目的で1864年に創設された藩立の洋学養成機関で、語学のほか、砲術、兵法などの軍事学や天文、数学などの自然科学を中心に教えていた[2]。 1865年2月13日、視察員4名と開成所を中心に留学生15名が選ばれ、留学渡航の藩命が下される。鎖国下においては洋行禁止のため、表向きは「甑島・大島周辺の調査」としての辞令で、藩主からは各人に変名が与えられていた[3]。 鹿児島城下を発つ前日には、攘夷思想を持つ畠山丈之助、島津織之介、高橋要の3名が留学辞退を申し出たが、畠山のみ藩主・島津久光の説得に応じ、辞退した島津と高橋の代わりには、同じ家格から村橋直衛と名越平馬が選出された[3]。 同年2月15日、使節団長の新納久脩に率いられ鹿児島を出発した留学生一行(計16名)は、苗代川(現・日置市美山)で一泊し、翌日に市来湊から船で薩摩郡串木野郷羽島村(現・鹿児島県いちき串木野市羽島)に渡った。一行は、トーマス・グラバーが用意した船に乗船する予定となっており、船は長崎から羽島沖に迂回して来ることになっていた。留学生たちは、船が来るまでの2ヵ月余りの間、海沿いにあった藤崎家と川口家に逗留し勉学に励み渡航に備えた[3]。 1865年4月14日に、英国渡航に係る手続きで長崎に滞在していた五代友厚、松木弘庵(1862年に江戸幕府の文久遣欧使節として渡航経験有、後の寺島宗則)、堀宗次郎の3名が羽島に到着し、留学生一行と合流した。1865年4月16日、グラバーの持ち船であるオースタライエン号が羽島沖に現れると、荷物を積み込み、そこで停泊する船内で寝ることとなった[3][1]。 翌日の1865年4月17日(旧暦3月22日)、一行(計19名)は昼前に密航出国した[3][1]。 5月28日(旧暦)にイギリス到着後、一行19名のうち、引率係の新納久脩、松木弘庵(後の寺島宗則)、五代友厚と、通訳の関研蔵、年少の長沢鼎を除いた14名が、3か月の語学研修ののち、ロンドン大学のユニバーシティカレッジの法文学部聴講生として[1]入学し、先に入学していた長州藩の留学生2名(井上勝と南貞助)とともに学んだ[4]。長沢はアバディーンのグラバーの家に預けられ、地元の学校に通った[4]。大学では、英国軍事学の基礎とも言える歴史・科学・数学などを主に学び、約半数が経済的理由により一年後の1866年夏に帰国した[1]。この間留学生と会った画家のジョージ・プライス・ボイスは美術評論家のウィリアム・マイケル・ロセッティ(画家ロセッティの弟)に宛てた書簡で彼らのことを「育ちがよく聡明で英語も少しわかる」と評している[1]。近年、新しい史料から新納久脩らは、スコットランドのグラスゴーに軍艦を注文に訪れていたことが判明した。[5] 残留した学生たちは、学業のほか、欧州各地を訪問するなどしたのち、一部はシャルル・ド・モンブランの紹介でフランスに転学、森有礼、鮫島尚信、長澤鼎、吉田清成、畠山義成、松村淳蔵の6名は、英国下院議員ローレンス・オリファントの「日本再生のために役立つ」という勧めに従い、オリファントが信奉する宗教家トマス・レイク・ハリスが創立した宗教共同体「新生兄弟」のコロニーに参加するため、1867年夏にアメリカに移った。オリファントは留学生たちのことを「人に迷惑をかけることを嫌い、世間知らずで、真実で愛すべき誠実な人たち」と評し、留学生たちにハリスの教えこそ「外国から日本を守る唯一の道」と説いて勧誘した[4]。教団コロニーでの自給自足の共同生活は、学資の尽きてきた留学生たちにとっても好都合であった[1]。また、英国で1年を過ごした時点で留学生たちはキリスト教文明社会について懐疑的になっており、オリファントらの影響もあってか、欧米諸国の欲心にのみとらわれて侵略行為を繰り返す弱肉強食的な体質を批判して学ぶべき点が少ないとし、「表面的には公平な英国もその実は技巧権謀に支配された不義不法の国」と国元に書き送っている[6]。
五代 友厚 (ごだい ともあつ、天保6年12月26日〈1836年2月12日〉 - 明治18年〈1885年〉9月25日)は、日本の実業家[2]。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現在の鹿児島県鹿児島市長田町)生まれ[3]。贈正五位、勲四等。通称は才助。 ・寺島 宗則 (てらしま むねのり、1832年6月21日〈天保3年5月23日〉 - 1893年〈明治26年〉6月6日)は、日本の政治家。爵位は伯爵。元は松木 弘安(まつき こうあん)、別字に弘菴[1]、弘庵、洪庵。通称は寺島改姓後に陶蔵と名乗った。日本の電気通信の父と呼ばれる。第4代外務卿として活躍した。 文久3年(1863年)の薩英戦争においては五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる[1]。慶応元年(1865年)、薩摩藩遣英使節団に参加し欧州を再訪[6]。渡欧中にはイギリス外務省との外交交渉などを行った[6]。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン構内に設置されている記念碑は、当時関わった一人として「寺島宗則」の名前を刻んでいる[7] 慶応年間薩藩留学生。(後列左から)田中静洲、町田申四郎、鮫島尚信、寺島宗則、吉田清成。(前列左から)町田清蔵、町田久成、磯永彦助。 明治維新後、遣欧使節での経験を生かして外交官となる。慶応3年(1867年)11月、全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出した[8]。明治元年(1868年)にはスペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、同4年(1871年)にはハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任されている。明治5年(1872年)、初代の在イギリス日本公使となる。 1880年頃撮影 明治6年(1873年)、参議兼外務卿となる。政府の財政難から関税自主権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり、明治12年(1879年)に外務卿を辞職。その後、文部卿、元老院議長、在アメリカ日本公使、枢密顧問官、枢密院副議長などを歴任した。 明治17年(1884年)には伯爵に叙され、翌年には東京学士会院会員となった。 明治26年(1893年)、62歳で死去。 ・五代 友厚 (ごだい ともあつ、天保6年12月26日〈1836年2月12日〉 - 明治18年〈1885年〉9月25日)は、日本の実業家[2]。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現在の鹿児島県鹿児島市長田町)生まれ[3]。贈正五位、勲四等。通称は才助。 実業家への展望 慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴[4]。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン構内に設置されている記念碑は、当時関わった一人として「五代友厚」の名前を刻んでいる[5]。ベルギーのブリュッセルでモンブランと貿易商社設立契約に調印、これは薩摩藩財政に大きく寄与するものとみなされたが、諸要因により失敗に終わる。しかし、この時の経験がのちの五代の経営手腕に大きな影響を与えることになる。 慶応2年(1866年)に帰国[4]。御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のグラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。ここでいうドックというのは俗にそろばんドックと呼ばれるもので現存している。慶応4年(1868年)、戊辰戦争が勃発し五代は西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍した。 ・井上 馨 (いのうえ かおる、1836年1月16日〈天保6年11月28日 〉- 1915年〈大正4年〉9月1日)は、日本の政治家[3]。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵。 尾去沢銅山事件 江戸末期、財政危機にあった南部藩は御用商人鍵屋村井茂兵衛から多額の借財をなしたが、身分制度からくる当時の慣習から、その証文は藩から商人たる村井に貸し付けた文面に形式上はなっていた。藩所有の尾去沢鉱山は村井から借りた金で運営されていたが、書類上は村井が藩から鉱山を借りて経営している形になっていた[77]。1869年(明治元年)、採掘権は南部藩から村井に移されたが、諸藩の外債返済の処理を行っていた大蔵大輔の職にあった井上は、1871年(明治4年)にこの証文を元に返済を求め、その不能をもって大蔵省は尾去沢鉱山を差し押さえ、村井は破産に至った。井上はさらに尾去沢鉱山を競売に付し、同郷人である岡田平蔵にこれを無利息で払い下げた上で、「従四位井上馨所有」という高札を掲げさせ私物化を図った。村井は司法省に一件を訴え出て、司法卿であった佐賀藩出身の江藤新平がこれを追及し、井上の逮捕を求めるが長州閥の抵抗でかなわず、井上の大蔵大輔辞職のみに終わった。江藤が下野し、佐賀の乱で死刑になったため真相は解明されずに終わった[78]。これを尾去沢銅山事件(尾去沢疑獄事件、尾去沢汚職事件とも)という[79][80]。 仕事上で特に深く関わった人物は渋沢栄一、益田孝、藤田伝三郎、貝島太助、杉孫七郎、杉山茂丸ら多数。長寿だったため、大甥である鮎川義介(実姉常子の孫、日産コンツェルン創始者)や鮎川の義弟・久原房之助(藤田の甥、久原財閥の祖)への指導もしている[84]。 政界を離れた井上は、鉱山を手に入れた岡田とともに1873年(明治6年)秋に「東京鉱山会社」を設立、翌年1月には鉱山経営に米の売買・軍需品輸入も加えた貿易会社「岡田組」を益田孝らと設立、岡田の急死(銀座煉瓦街で死体となって発見[81])により鉱山事業を切り離し、同年3月に益田らと先収会社を設立、これが三井物産へと発展していった[82][83]。 ・鮎川 義介 (あゆかわ よしすけ/あいかわ よしすけ[1][2][3][4]、 1880年(明治13年)11月6日 - 1967年(昭和42年)2月13日)は、日本の実業家、政治家。日産コンツェルン創始者[5]である。満洲重工業開発株式会社総裁、貴族院議員、帝国石油株式会社社長、石油資源開発株式会社社長[1][2][3][4]、参議院議員などを歴任した。 生い立ち 明治13年(1880年)、旧長州藩士・鮎川弥八(第10代当主)を父とし、明治の元勲・井上馨の姪を母として山口県吉敷郡大内村(現在の山口市大内地区)に生まれる。 満洲国へ 1934年(昭和9年)、自動車製造株式会社を日産自動車株式会社と改称。同年『ドイツ系ユダヤ人五万人の満洲移住計画について』と題する論文を発表。5万人のドイツ系ユダヤ人を満洲国に受け入れ、同時にユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことにより、満洲の開発を促進させると共に、同地を仮想敵国であるソビエト連邦(ソ連)に対する防壁とする構想(満蒙問題、反共主義#南京事件から広田三原則まで、防共協定も参照)を、ユダヤ専門家として知られる陸軍大佐・安江仙弘[注釈 4]、海軍大佐・犬塚惟重、関東軍のいわゆる「大陸派」(満洲進出を求めた多くの軍閥)に立案した(のち河豚計画へと展開する)。これにより、関東軍の後ろ盾を得る。南満洲鉄道(満鉄)の理事だった松岡洋右[注釈 5] ものちに河豚計画に参加。 1939年(昭和14年)頃には白洲次郎らと世界情勢を語り合い、ドイツと英仏間の戦争は、英仏の勝利との結論を得る。関東軍との関係悪化から日産グループの満洲撤退を検討。1942年(昭和17年)頃に満業の総裁を辞任して副総裁の高碕達之助に交代。1943年(昭和18年)11月17日に藤原銀次郎が東條内閣に入閣すると、五島慶太・鈴木貞一らと内閣顧問に就任。 太平洋戦争後 1945年(昭和20年)12月2日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本政府に対し前満洲重工業総裁の肩書を有する鮎川を逮捕するよう命令(第三次逮捕者59名中の1人)[10]、 巣鴨拘置所に20か月拘置されたが、容疑が晴れる。獄中にて日本の復興策を練る。1952年(昭和27年)、日産グループ各社の出資を得て中小企業助成会を設立。会長に就任。以後、中小企業の振興に尽力。1953年(昭和28年)、帝国石油社長、石油資源開発社長。参議院議員に当選。 1956年(昭和31年)、日本中小企業政治連盟(中政連)を創立し、総裁に就任。その後、主に政治家としての晩年を送る。また、同年設立された全国中小企業団体中央会の会長にも就く。この間、岸内閣経済最高顧問、東洋大学名誉総長。産業計画会議委員(議長・松永安左エ門)就任。
牧野 伸顕 (まきの のぶあき、1861年11月24日〈文久元年10月22日〉 - 1949年〈昭和24年〉1月25日)は、日本の政治家。位階は従一位。勲等は勲一等。爵位は伯爵。名は「シンケン」と音読みされることもある[1]。幼名は伸熊(のぶくま)。以前の諱は是利(これとし)[注釈 1]。 大久保利通は父、吉田茂は娘婿、寬仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。1861年11月24日(文久元年10月22日)、薩摩国鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士で維新の三傑の一人・大久保一蔵(後の利通)と妻・満寿子の次男として生まれた。生後間もなく父・利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となるが、1868年(慶応4年)に吉之丞が戊辰戦争における北越戦争で戦死したため、名字が牧野のまま大久保家で育った[要出典]。 1921年(大正10年)、宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮相が辞任すると元老の松方正義が後継選択を行い、2月19日に親任式が行われ牧野が宮内大臣に就任することとなった。が、薩派の山之内一次や樺山資英らが牧野を松方・山本の後を嗣ぐ次代のエースとみなしており、辞退を勧告した。また、西園寺公望も宮相就任の挨拶に来た牧野に「宮相も従来からの候補であったが、首相として原敬の後を引き受けてもらいたかった」と発言している。穏健な英米協調派で自由主義的傾向が強い牧野を宮内大臣に推したのは、天皇及び宮中周辺に狂信的な皇室崇拝者を置くことで皇室が政治的な騒乱に巻きこまれることを嫌った西園寺の意向であるという。これ以降、牧野は西園寺の意を体して、宮中における自由主義を陰に陽に守り抜くことをその政治的使命とする。宮相就任後、牧野は元老と内大臣との間の情報仲介役として、後継首班奏請に関与するようになる[13]。だが宮相になった翌年に山縣が亡くなり、元老は松方と西園寺のみとなり、両者とも病臥することが多くなった。 ・麻生 太郎 (あそう たろう、1940年〈昭和15年〉9月20日 - )は、日本の政治家、実業家、元射撃選手。自由民主党所属の衆議院議員(14期)、同党最高顧問、志公会会長。自民党たばこ議員連盟顧問、中曽根康弘世界平和研究所会長、全国経理教育協会会長を務める。飯塚市在籍[1]。内閣総理大臣(第92代) 来歴 麻生太郎は、福岡県飯塚市に麻生太賀吉・和子の長男として生まれる。麻生家は、高祖父が大久保利通、祖父が吉田茂、義父が鈴木善幸元首相、妹が皇族の寬仁親王妃信子という血脈を持つ。小学3年生のころ上京し、学習院初等科に編入する。学習院中等科・高等科を経て、学習院大学政経学部を卒業する。大学在学中は、射撃部に所属し、射撃の腕を磨いた。 1996年には第2次橋本内閣の経済企画庁長官に就任し、初入閣。1999年1月、党内で長年所属した宏池会を離脱、河野洋平を会長とする大勇会(河野グループ)の旗揚げに参加。 ・麻生 太賀吉 (あそう たかきち、1911年9月29日 - 1980年12月2日)は、日本の実業家、政治家。麻生セメント会長。衆議院議員(3期)。妻和子は吉田茂の三女。関連会社である麻生鉱業社長と麻生セメント社長を務め、莫大な利益を得た。戦後の1951年(昭和26年)には九州財界の重鎮である九州電力会長に就任している。この間、1948年(昭和23年)石炭国管問題で衆議院不当財産取引調査特別委員会に証人喚問された[4]。 来歴・人物 1911年(明治44年)9月29日、九州の炭鉱王麻生太吉の三男・太郎を父に、子爵加納久朗の妹・夏子を母として福岡県嘉穂郡飯塚町(現・飯塚市)に生まれる。ロンドン滞在中、白洲次郎の紹介で当時駐英大使をしていた吉田茂の三女・和子と知り合い、帰国後に結婚する。首相となった岳父を補佐するため、1949年(昭和24年)第24回衆議院議員総選挙に郷里の福岡県から立候補し当選する。以後3期務めた。吉田の側近として吉田の政治資金を捻出したほか、政界と財界の連絡役を務めた。田中角栄は麻生に接近し、自身と麻生・根本龍太郎の三人組で池田勇人大蔵大臣を誕生させる原動力となった。サンフランシスコ講和条約締結前夜、早期講和か全面講和をめぐり与野党が対立する中で奔走し、国民民主党の苫米地義三を口説いて吉田に協力させることに成功した。しかし吉田内閣の総辞職と共に政界を引退し、実業界に戻る。結婚前から敬虔なカトリック信徒である妻の和子ともどもカトリック信徒であった。 1965年(昭和40年)、日本石炭協会会長に就任する。1969年(昭和44年)藍綬褒章を受章。1980年(昭和55年)12月2日に死去した。正四位に叙され勲二等瑞宝章追贈。墓所は青山霊園。 ・河野 洋平 (こうの ようへい、1937年〈昭和12年〉1月15日 - )は、日本の政治家。 衆議院議長(第71・72代)、副総理(村山内閣・村山改造内閣)、外務大臣(第118・123-125代)、内閣官房長官(第55代)、科学技術庁長官(第39代)、原子力委員会委員長(第39代)、衆議院議員(14期)、自由民主党総裁(第16代)、新自由クラブ代表(初代・第3代)を歴任。 父は副総理兼国務大臣(東京五輪担当)、農林大臣、建設大臣、衆議院議員を務めた河野一郎、叔父は参議院議長を務めた河野謙三、第4代デジタル大臣で衆議院議員の河野太郎は長男[1]。いわゆる従軍慰安婦について述べた「河野談話」を発表したことで知られる。 ・慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話 (いあんふかんけいちょうさけっかはっぴょうにかんするこうのないかくかんぼうちょうかんだんわ)とは、1993年(平成5年)8月4日、宮澤改造内閣の内閣官房長官・河野洋平が発表した談話である。一般に「河野談話」として知られ、この談話の中で慰安所の設置・管理及び慰安婦の移送について日本軍の関与を認め、「おわびと反省」を表明した。 河野談話の原案は、日本政府関係省庁における関連文書、米国国立公文書館の文書、軍関係者や慰安所経営者等各方面への聞き取り調査に基づいて作成された(慰安婦証言が根拠になって作成されたものでない)[1]。 ・河野 太郎 (こうの たろう、1963年〈昭和38年〉1月10日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(9期)。 父は自由民主党総裁、衆議院議長、外務大臣、副総理、内閣官房長官、科学技術庁長官などを務めた河野洋平。 当選後の河野太郎は自民党内ではしばらく無派閥で活動し、その後に麻生太郎の勧めで宮澤喜一が会長を務めていた宮澤派(宏池会)に所属した。 1999年(平成11年)、父や麻生太郎に従い、河野太郎は同派を離脱し、河野グループ(大勇会)に移った。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙で再選、2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙で三選。韓国の元ハンナラ党議員で駐神戸総領事の李成権(朝鮮語版)[22] をかつて秘書としていた[23]。自由民主党総裁選挙へ出馬した[注 1] が、谷垣禎一に敗れた。11月11日、新世代保守を確立する会を設立。 デジタル大臣 2022年8月10日、第2次岸田第1次改造内閣で第4代デジタル大臣に就任。兼務する担当大臣のうち、内閣府特命担当大臣(消費者及び食品安全)は初入閣時以来、国家公務員制度担当大臣は菅内閣以来の再登板である。各閣僚がそれぞれの省庁で就任に際して行う記者会見について、「記者を待たせて深夜の会見を行うのは本意ではない」として見送った[55]。 同年9月13日の記者会見で 、日本のCOVID-19アプリ、新型コロナウイルス接触確認アプリ(COCOA)の機能を停止することを発表した[56]。 2024年9月27日投開票の党総裁選に立候補したが、9人中8位に終わった[57]。
坂本 龍馬 (さかもと りょうま、天保6年11月15日〈1836年1月3日〉 - 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)は、日本の幕末の土佐藩士、志士、経営者。諱は直陰(なおかげ)、のちに直柔(なおなり)。通称は龍馬[注 1]。他に才谷 梅太郎(さいたに うめたろう)などの変名がある(「手紙と変名」の項参照)。 いろは丸沈没事件(積荷を水増しして吹っかけて詐欺氏の竜馬) 1867年5月26日(慶応3年4月23日)、いろは丸は大洲藩から借り受けた海援隊による操縦のもとで大坂に向かって瀬戸内海を航行中であった。 23時頃に、長崎港に向けて同海域を航行していた紀州藩の軍艦・明光丸(船長高柳楠之助[注 5])が備中国笠岡諸島(現在の岡山県笠岡市)の六島(北緯34度18分16.0秒 東経133度31分53.7秒)付近で進路が交差・接近した。いろは丸が取舵、明光丸が面舵をとり、同じ方角に回避行動をとった結果、両船は衝突した。明光丸はイギリスで建造された長さ四十二間、幅六間、深さ三間半、百五十馬力、八百八十七トンの蒸気船であり、彼我の差はあまりにも大きく、更にいったん後退した明光丸が再び前進[注 6]して再度衝突を起こしたため、いろは丸は大破した[14]。 いろは丸は自力航行不能となり、明光丸が船舶の修理施設の整った近くの備後国沼隈郡鞆の浦まで曳航することとなったが、風雨が激しくなった翌日早朝、鞆の南10km付近にある沼隈郡宇治島(北緯34度18分52.7秒 東経133度27分55.8秒)沖で沈没した。坂本龍馬はじめ海援隊士などいろは丸乗組員は全員明光丸に乗り移っており、死者は発生しなかった[14]。 その後、龍馬らは鞆の浦に上陸した。龍馬は紀州藩の用意した廻船問屋の桝屋清右衛門宅や対潮楼に4日間滞在し賠償交渉を行った。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたが、龍馬は当時日本に持ち込まれたばかりで自身が精通している万国公法を持ち出し、紀州藩側の過失を追及した[15]。 一度目の衝突に至るまでのいろは丸の操船は、当時の国際ルール[注 7]に照らしても重大な過失があったとする説が現在では有力であるが(いろは丸の取舵は右側通行を原則とする行き合い船の航法に違反しており、さらにいろは丸は衝突前に明光丸を進路の右手前方に見ていた蓋然性が極めて高い[注 8]。これを横切り船の航法に当てはめると、いろは丸こそが回避義務を負う避航船で、より大型で操船自由度が低い明光丸は保持船に相当したということになる。したがって、いろは丸の取舵が、史実通りの面舵か進路の保持で事故を回避できたはずの明光丸との衝突を招いたと言える。また、いろは丸側の主張は高柳家に残された『明光丸ト土佐藩之汽船伊呂波丸ト衝突事件応接筆記』や紀州藩の歴史書『南紀徳川史』での記録と真っ向から対立しており、位置関係上明光丸の紅灯が見えるべきところ緑灯を発見して舵を切ったとするなど不自然であることから、自己の立場を有利にするための偽証であったと目される。なお、紀州藩側はいろは丸が相手に自船の向きを伝える役割をする舷灯を点灯していなかったと主張しているが、証拠となるいろは丸船体が水没したために立証できなかった[12][13][17][18])、紀州藩は龍馬の交渉術に翻弄された[15]。 沈没したいろは丸の船体は1980年代に海底で発見された。その後複数回実施された潜水調査では、いろは丸から朱や鮫皮などの交易品は見つかったものの、龍馬らが主張した銃火器などの積荷はまったく確認されておらず、紀州藩から多額の賠償金をせしめるための「はったり」であったとみられている[8][19][24]。賠償金は7万両に減額されたうえで11月7日に長崎で土佐藩に支払われ、更にその後龍馬に支払われるはずだったが、8日後の11月15日に龍馬はその大金を受け取ることなく京都河原町通蛸薬師下ルの近江屋で暗殺された[8][12][19]。 この事故は、蒸気船同士の衝突事故としても海難審判事故としても日本で最初の事例とされている[10][19]。 後年の調査 1988年 鞆の浦の有志で結成された「鞆を愛する会」が、鞆の浦から15km沖合の水深27mの海底で沈没船を発見、「水中考古学研究所」が潜水調査を実施し、積載品の種類や年代がいろは丸の記録とほぼ一致することを確認[5][8][24]。 1990年 2月にいろは丸沈没場所が、水中遺跡に指定された[誰?]。 2005年 京都市埋蔵文化財研究所が加わって実施された第4次海底調査で、船体近辺では龍馬等が主張した銃火器等は発見されなかった[8][24]。 2010年 4月23日に、大洲市がいろは丸購入契約書(個人所有)の解析結果を発表。大洲藩による幕府への届け出に依拠していた、いろは丸の由来に関する通説が、これにより大きく覆された[5][7]。 7月27日に、長崎市歴史民俗資料館がいろは丸とみられる絵図の発見を発表。幕末に佐賀藩士が長崎港に入港した艦船などをつづった記録誌「白帆注進外国船出入注進」全3巻(佐賀市の鍋島報效会徴古館所蔵)に掲載されており、旗印が購入した大洲藩の《赤地に蛇の目》であることから間違いないと結論づけた[25]。
坂本竜馬ー2 土佐勤王党 土佐藩では、江戸幕府からの黒船問題に関する各藩への諮問を機に藩主の山内豊信(容堂)が吉田東洋を参政に起用して、意欲的な藩政改革に取り組んでいた。また、容堂は水戸藩主・徳川斉昭、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城らとともに将軍継嗣問題では一橋慶喜を推戴して幕政改革をも企図していた。しかし、安政5年(1858年)4月に井伊直弼が幕府大老に就任すると、幕府は一橋派を退けて徳川慶福(家茂)を将軍継嗣に定め、開国を強行して反対派の弾圧に乗り出した(安政の大獄)。 脱藩 挙藩勤王を目指す武市は、積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を四国・中国・九州などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。 亀山社中(のちの海援隊) 龍馬ら塾生の庇護を引き受けた薩摩藩は彼らの航海術の専門知識を重視しており[45]、五代友厚らは慶応元年(1865年)5月頃に龍馬らに出資した(亀山社中[注 20])。またイギリス式銃兵隊を養成する宇和島藩の児島惟謙らとも親交を結んだ。これは商業活動に従事する近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織であり[46][注 21]、当時商人が参集していた長崎の小曽根乾堂家を根拠地として、下関の伊藤助太夫家、そして京都の酢屋に事務所を設置した。 幕府勢力から一連の打撃を受けて、長州藩には彼らを京都政治から駆逐した中心勢力である薩摩・会津両藩に対する根強い反感が生じており、一部の藩士はともには天を戴かずと心中に誓い、たとえば「薩奸會賊(「さっかんかいぞく」薩摩の薩と會津(会津の旧漢字)の會)」の四文字を下駄底に書き踏みつけて鬱憤を晴らす者がいたほどだった。このような雰囲気の中でも、土佐脱藩志士中岡慎太郎とその同志土方久元は薩摩、長州の如き雄藩の結盟を促し、これをもって武力討幕を望んでいた。龍馬は大村藩志士の渡辺昇と会談し、薩長同盟の必要性を力説する。渡辺は元練兵館塾頭で桂小五郎らと昵懇であったため、長州藩と坂本龍馬を周旋。長崎で龍馬と桂を引き合わせた。慶応元年(1865年)5月、まず土方と龍馬が協同して桂を説諭し、下関で薩摩の西郷隆盛と会談することを承服させる。同時に中岡は薩摩に赴き、西郷に会談を応じるよう説いた。 討幕急先鋒の立場にある長州藩に対して、幕府は国外勢力に対して長州との武器弾薬類の取り引きを全面的に禁止しており、長州藩は近代的兵器の導入が難しくなっていた。一方、薩摩藩は兵糧米の調達に苦慮していた[要出典]。ここで龍馬は薩摩藩名義で武器を調達して密かに長州に転売し、その代わりに長州から薩摩へ不足していた米を回送する策を提案した。取り引きの実行と貨物の搬送は亀山社中が担当する。この策略によって両藩の焦眉の急が解決することになるため、両藩とも自然これに首肯した。 長崎のグラバー商会からミニエー銃4,300挺、ゲベール銃3,000挺の薩摩藩名義での長州藩への買いつけ斡旋に成功した[48]。これは同時に薩長和解の最初の契機となった。また、近藤長次郎(この当時は上杉宗次郎と改名)の働きにより、薩摩藩名義でイギリス製蒸気軍艦ユニオン号(薩摩名「桜島丸」、長州名「乙丑丸」)の購入に成功し、所有権を巡って紆余曲折はあったが10月と12月に長州藩と桜島丸条約を結び、同船の運航は亀山社中に委ねられることになった[49]。 9月には長州再征の勅命には薩摩は従わない旨の「非義勅命は勅命にあらず」という重要な大久保一蔵の書簡を、長州藩重役広沢真臣に届けている[50]。11月に坂本龍馬は、五代才助を伴い下関に行き広沢真臣と、商社示談箇条書を結びました。 龍馬不在の長崎の亀山社中では、1月14日にユニオン号購入で活躍した近藤長次郎(上杉宗次郎)が独断で英国留学を企てて露見し、自刃させられる事件が起きていた。事件を知らされた龍馬は『手帳摘要』に「術数はあるが誠が足らず。上杉氏(近藤)の身を亡ぼすところなり」[注 27] と書き残しているが、後年のお龍の回顧では「自分がいたら殺しはしなかった」と嘆いたという[59]。 5月1日、薩摩藩からの要請に応えて長州から兵糧500俵を積んだユニオン号が鹿児島に入港したが、この航海で薩摩藩から供与された帆船ワイル・ウエフ号が遭難沈没し、土佐脱藩の池内蔵太ら12名が犠牲になってしまった。幕府による長州再征が迫っており、薩摩は国難にある長州から兵糧は受け取れないと謝辞し、ユニオン号は長州へ引き返した。 長州藩は西洋の新式兵器を装備していたのに対して幕府軍は総じて旧式であり、指揮統制も拙劣だった。幕府軍は圧倒的な兵力を投入しても長州軍には敵わず、長州軍は連戦連勝した。思わしくない戦況に幕府軍総司令官の将軍・徳川家茂は心労が重なり7月10日に大坂城で病に倒れ、7月20日に21歳の短い人生を終えた。このため、第二次長州征伐は立ち消えとなり、勝海舟が長州藩と談判を行い9月19日に幕府軍は撤兵した(小倉口では交戦が続き和議が成立したのは翌慶応3年1月23日)。
以下は、批判ではないんですが。まあ書くだけ書いておきましょう。 ・サンフランシスコ平和条約の正文は、英語、フランス語、スペイン語の3言語で、日本語は参考文書です。サンフランシスコ平和条約は、1951年9月8日にサンフランシスコで署名され、公式名称は「日本国との平和条約」です。太平洋戦争の終結を目的として、日本政府が英米など48か国と締結した講和条約で、「対日平和条約」とも呼ばれています。 条約の正文は、英語、フランス語、スペイン語の3言語が等しく正文で、日本語は付け足しとして作成されています。条約として有効なのは英語、フランス語、スペイン語の文章のみで、日本語は参考文書という扱いになっています。 ・私が知ったのは、10年以上前ですが。以下であり、稲垣氏が大嫌いな、一介の百姓見習いさんが、西村慎吾の言としてわざわざ私に指摘してきましたので、一応把握されておいた方がいいでしょう。ついでに、チャット欄で「ひのきのみ」氏に指摘しておきましたが、彼は「仲間、仲間」言いながら、煉獄炭次郎氏の剣幕で、あるいは無名人氏の嫌がらせを、見て見ぬふりを決め込んで、無視していたので。あまり説得力はありませんがね。わらいぶくろ=ひのきのみ氏に。ま、本人には指摘したので、こちらも把握されておいたほうがいいでしょう。自粛するように願いますがね彼らには。いずれにしろ書籍は示唆に富んでいたので当時参考にはなりました。 ・あなたは常識に洗脳されている 単行本(ソフトカバー) - 2010/8/21 苫米地 英人 (著) 最低でも、これだけは知っておくべきである----。 私たちは「常識」に洗脳されている! 日本にはびこる「常識」の本質を突く、苫米地英人・衝撃の最新作! あなたは、奴隷でしかない----。 私がそう言うと、「私は奴隷ではない!」と反論する人も多いのではないでしょうか。 しかし、これは紛れもない事実です。 私たちは、一部の支配者に都合のいいように洗脳されています。 私たちに気づかれないように、巧みに「常識」という名を使って洗脳しているのです。 その最たるものが親による洗脳です。 例えば、あなたが子どものころ、次のようなことを言われなかったでしょうか? 「食事の前にお菓子を食べたらダメ」 「部屋を散らかしたら、自分で片付けなさい」 「電車の中で騒いだらダメ」 「音を立てて食事をしてはいけない」 「将来のために今は勉強しなさい」......。 これらは、すべて親による「洗脳」です。 「常識」という名を借りた洗脳なのです。だから、洗脳されていない人はいないといっても過言ではありません。 そう考えると、学校教育も洗脳だと言えます。 教育では、さまざまな常識を教えられます。子どものころに受けた教育は、あなたの一生を縛り続けることになるのですーー。(本文より抜粋) 混迷の時代・本当に知るべきことは何か? あなたの常識をいい意味で覆す一冊! 親による洗脳 学校教育による洗脳 社会による洗脳 世間による洗脳 政治による洗脳 メディアによる洗脳 ◎あなたは日本の少子化を問題だと思いますか? ◎先祖を敬うべきだと思いますか? ◎新聞記者のスクープは記者の実力だと思いますか? ◎健康のためにマラソンするのはいいと思いますか? ◎有機野菜は体にいいと思いますか? ◎紙のリサイクルはいいことだと思いますか? ◎国の機関が発表するデータは正しいと思いますか? ◎地球は温暖化していると思いますか? ひとつでもイエスと思ってしまった人は...... 本書を読み、本当の自由を手に入れる考え方を知ってください。
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@@user-ko8ox6lp3j 何時も有難うございます。🎌頑張ります🎵
些か一万円でデモ参加の件で混乱が見られるので。以下を。 バブル世代の児童が親と同じことやってるだけでしょう。金で買おうという発想が、土地転がしと、芸術作品にまで金銭評価でしか見れない50,60代の連中にそっくりだ。 工作員だ、分断だ、と個人的な名誉の為に物を言っているようなのもいるようですがね。被害者の遺族の心情をまったく斟酌できなかった欲につられてやってきた青年達の不品行については、水島総氏の指摘したように大袈裟に騒がなく良い程度に、運営側の対応は厳格だったようではありますが。 当方はライブ画面で中継する様子で、不調和な若年層が映り込み、また撮影者に忌避されているのは拝見した。 引用元ー結局は拝金主義、根本的な病 もぎせかチャンネル チャンネル登録者数 19.3万人 11万 回視聴 3 日前 ・引用ー結局は拝金主義、根本的な病 もぎせかチャンネル チャンネル登録者 コメント欄より。 ・茂木氏の指摘 9/30追加情報です。9月28日のデモは、梯団(ていだん)という単位で登録されていました。今回の事案に関わると思われる梯団は、以下の通りです。 ① 桜響明隊(水色とピンクのTシャツ)…歌舞伎町や六本木の夜の街で働く若者たち250名。巻田隆之(校長まりも)氏が主催する勉強会の参加者。金銭授受なし。 ② 巻田氏の友人の経営者(氏名不詳)による「小遣い支給」に応じた190名。金銭授受あり。 ③ その情報を聞きつけて集まった? 誰かに動員された? 若者たち数百人。金銭授受不明。 私が見た限りでは①桜響明隊は組織化されていて、きちんとしていました。飲酒、タバコのポイ捨て、ゴミの散らかしをやらかしたのは、②あるいは③か? ・ハンドル名前念の為に略 以下、公式の発表です。なんか他人事に見えました。主催者側の謝罪とか再発防止策とかはないのかな?ないならそれだけの団体だったと言うまでです。 『9.28パレードデモ有明』主催者(当団体)に謝罪の連絡が来ました。 ※なお、29日夕刻、桜響明隊の6名で、豊洲コースに残された吸い殻等の清掃活動を行ったとの連絡がありました。 また巻田氏は、深い謝罪の言葉を寄せるとともに、今後も、若者たちの啓発と命をまもる運動を継続していく旨を表明いたしました。 【全文】 WHOから命をまもる国民運動様 この度は、有明パレードデモにおいて人集めに際し不適切な方法を用いてしまい、誠に申し訳ございませんでした。 前回の5月31日のデモでは、「桜響明隊」という梯団で250名が参加いたしました。 このチームは、歌舞伎町や六本木の夜の街で働く若者たちなどが中心となり、「夜の寺子屋」というタイトルで毎月、健康や歴史についての勉強会を行なっているメンバーで構成されています。 今回のデモでも、青とピンクのTシャツを着てパレードを回らせていただき、その際には一切の金銭のやり取りはございませんでした。 今回のデモは自主的に500名以上の人数を集めようと決意し、各所に頭を下げて参加をお願いしてまいりました。 当初の予想では、「桜響明隊」で300名、私が今回声を掛けたメンバーで300名、合計600名を集める予定でした。 天候等の影響で来られない方もいることを考慮し、最低でも500名は集まると見込み、運営様にはその人数で参加報告をさせていただきました。 その際、人数が多いため一梯団では回れないことから、2つの梯団に分けるようご指示をいただきましたので、私は、「桜響明隊」とは別に、私が声を掛けたメンバーと回る予定でした。 私は、10月から始まるレプリコンワクチンを絶対に阻止したいという強い思いがあり、その思いを友人たちにも熱心に伝えておりました。 その中で、友人の経営者の一人がこの思いに深く共感してくれ、可能な限りの応援を約束してくれました。 彼は多くの人に興味を持って参加してもらえるよう、私には黙って「小遣いを出すから参加して欲しい。友達を連れてきてくれたらその分も出すので、なるべくたくさん集めて欲しい」と声掛けを行っていたようです。 当初、彼の予想では100名ほどの参加を見込んでいましたが、実際には190名以上が集まり、その際、約束通り全員にお礼をしたとのことです。 友人がいくら私のためとはいえ、絶対にやってはいけない行動を取ってしまったことに対し、皆様になんてお詫びして良いのか言葉が見つかりません。 全て私の責任です。本当に申し訳ございませんでした。 また、大変申し訳なかったのですが、ご指摘頂いた不審な参加者の多くは、私も友人もどこから来られたのか把握できておりません。(さすがにこの人数の支払いは友人もできません。) この状況によって、皆様が築き上げてきた大切な集まりを不適切な方法で壊してしまったことを深く反省し、心からお詫び申し上げます。本当に申し訳ございませんでした。 巻田隆之 補記(依頼) 尚、以前にお気遣い頂いた恵さん(エミックさん、エミさん)は、数名の「令和嫌い」の方々の私情で物を言われて、ゆみさん、他数名と共に桜さん、国守さんからは撤退された。別館のデモには参加するかもしれない。恵さん批判者の中には女性が感情的に私情で物を言いたがる傾向は分からなくもないが、水島氏が公心で「超党派」と言っているんだから道理としては立たない。 当の女性お二人と何名かには、それとなく指摘しておいたので類似のことはおこらないかとは思われるが、恵さんご自身は、多少気にしておられたので、こちらも、厄介な男性二人をブロックしていればデモに参加していていも差支えないでしょうとは述べておいた。 こちらはハンドル名でお伝えするが、代、とろりん、の二名が恵さんの陰口と悪口を上か目線のを嘲笑的嘲弄的な物言いで、バカにしていたことが決定的となった。 ご本人は発達障害の息子の世話をしながら体調を崩しがちで入院などをされたりしておられるので懸念される。岩崎さんなり、モデレーターのお花さん?なりに置かれては、こちらにお越しの際は適宜に便宜を図って差し上げて頂きたい。当方は常にいられるわけでもないので、岩崎氏に置かれては特に依頼申し上げる。お忙しいおり、特に擁護とか保護とかいうわけではなく、声掛けでもされて頂ければよろしいかと存じ上げる。 この場合、政治云々ではなく、子供を育成し自立したのちの女性に対する依頼しとして捉えて頂ければこれ幸い。宜しくお願い申し上げるm(__)m
10/1 火曜日。京都駅前で街頭演説に参加したく、19時前に行きました。残念ながら、この日は違うところで活動されていたのか、分かりませんでした。
「1日670万人が拉致され、うち子供は170万人」なら、100日で6.7億人、うち子供1.7億人…怒髪天を衝く怒りは理解しますが…
@@5iwachan14 ご視聴有難うございます🙇すみません670万人→630万人の言い違いです🙏。子供の170万人はその通りです。