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北九州探訪録
Добавлен 2 окт 2016
若戸大橋・若戸トンネル無料化記念感謝祭
「もっと便利で安全な連絡道路を!」
若松と戸畑両区を結ぶ若戸大橋は悲惨な事故が大きな転機となり、市民が強く熱望し、叶えた希望の架け橋です。1962(昭和37)年の建設から有料道路として、市民の生活を支え続けてきましたが、当初の予定から9年も前倒しした2018年12月1日午前0時より、若戸トンネルと共に無料化されました。これを記念して、前夜祭での乾杯イベントを皮切りに、若戸大橋周辺では多彩な祝賀イベントが開かれ、多くの人で賑わいました。「若松物語vol.22」では伝えきれなかった当日の様子を映像でお楽しみください。
若松と戸畑両区を結ぶ若戸大橋は悲惨な事故が大きな転機となり、市民が強く熱望し、叶えた希望の架け橋です。1962(昭和37)年の建設から有料道路として、市民の生活を支え続けてきましたが、当初の予定から9年も前倒しした2018年12月1日午前0時より、若戸トンネルと共に無料化されました。これを記念して、前夜祭での乾杯イベントを皮切りに、若戸大橋周辺では多彩な祝賀イベントが開かれ、多くの人で賑わいました。「若松物語vol.22」では伝えきれなかった当日の様子を映像でお楽しみください。
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若松の繁栄を築いた跡「若松港の土木遺産めぐり」
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洞海湾・若松港は、背後にある筑豊炭田からの石炭の積出基地として、1890(明治23)年以降に開発整備が始まりました。 工場の近代化が進み、石炭需要が増えることにより、筑豊炭田の生産能力が上がり、鉄道輸送も始まりましたが、石炭の海上輸送能力が問題でした。そこで、大型化する船舶に対応するため、港内の水底を掘って水深を拡張し、積出岸壁や貯炭場の整備が進められました。これにより、筑豊炭田から若松への着炭と積出量は大幅に増大し、国内シェアの約50%を占めるまでになりました。 その間、洞海湾では官営八幡製鐵所が操業を開始し、造成した埋立地には重化学国業を中心に多くの工場が立地するなど、日本の四大工業地帯の一角として発展し、日本の経済成長を支えることとなります。 この洞海湾・若松港の築港に係る施設は、「若松港築港関連施設群」として2019(令和元)年「土木遺産」に認定されました。今回は、この土...
北九州市の水がめ ~ます渕ダムに思いを寄せて~
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四季折々の自然が楽しめる 市民の憩いの場「ます渕ダム」。 北九州市の水がめとして悠々と水をたたえるます渕ダムですが、このダムが2つの大きな貯水池を湖底に抱えていることをご存知でしょうか。 蛇口をひねるとすぐに清潔で安全な水が手に入る私たちの生活。飲み水も工場用水もダムがあるからこそ。その一方で、ダム建設によって生活環境が一変した集落もあり、ダムのある風景は、生活への恩恵と、それに関わる人々の想いを考えさせられる景観でもあるのです。 北九州市の発展を支え続けてきた「ます渕ダム」建設の歴史を、特集と共に映像でもお楽しみください。
北九州市旧古河鉱業若松ビル~100年のあゆみ~
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若松南海岸通りは、石炭景気に沸いた大正期の建物群が多く残るエリア。歴史を感じる建物が集まるこの通りは、映画の撮影にも度々使われています。 その中でも一際目立つ存在なのが「北九州市旧古河鉱業若松ビル」。その名の通り、大手資本・古河財閥が石炭販売の拠点として建設しました。小さなビルですが、玄関や窓枠などのデザインはルネサンス様式を基調とし、その他は簡素な幾何学模様が施された大正建築の意匠が髄所に散りばめられた近代遺産です。 2019(令和元)年は、竣工100周年を迎える節目の年。若松のシンボルであるこの建物が歩んできた軌跡を振り返ってみましょう。
前田祇園- 北九州 八幡の祇園祭 八幡東区の 熱い思い・誇り・伝統【北九州探訪録】
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福岡県北九州市の夏の祭のひとつ、八幡東区の祇園祭。2020年の日程はコロナ禍で中止となりましたが、臨場感あふれる様子を動画でお楽しみください。 八幡東区では毎年7月に、歴史と伝統が息づく祇園祭りが各地で開催されます。地域の産土神である神社と祭りの関係は深く、それぞれの例大祭や夏越祭に合わせて行われます。 大蔵祇園・中央祇園・茶屋町衹園・枝光衹園とありますが、その中で今回は、前田祇園にスポットをあて、起源や特徴をご紹介。地域の熱い思いを感じてください。 【北九州探訪】 八幡東区の5つの祇園祭について フリーペーパー『虹色八景vol.9』のebookでご覧いただけます kitakyushu-guide.sun.bindcloud.jp/pickup/yahata-gion.html
街なかを走る貨物列車「若松市営電気軌道」-フリーペーパー若松物語
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明治以降の若松では、度重なる洞海湾の開発によって北部の埋立てが急速に進み、新たに生まれた地には、各種の工場が次々と進出していました。こうした北湊工業地帯を支える物流の要として若松駅と埋立て地を繋ぐために、1936(昭和11)年に開業したのが、貨物輸送専用の「若松市営電気軌道」です。この軌道のルートは、若松駅の操車場から南海岸通りへ進み、現在のサンリブあたりから若松随一の繁華街だった中川通りへ進入、北湊や安瀬の工場地帯へと走っていく、というもの。人々の生活の足としてではなく、百貨店もあるまちの大通りを貨物輸送のための公営路面電車が走っていたのは、全国でも唯一若松だけ。世界的にも珍しい風景を「若松物語vol.23」と共に映像でお楽しみください。
渡船のある風景-フリーペーパー飛幡
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洞海湾に架かる深紅の若戸大橋と、日差しを浴びて海を渡る渡船は区民の故郷の風景です。 就航から108年、時代が移り替わっても地域の暮らしを支え、愛され続ける若戸渡船。 これまでの渡船のあゆみや、運航を支える船長の仕事を交え、若戸渡船の魅力を飛幡vol.9の特集と共に映像でご紹介しますので、風情漂う3分間の船旅に出かけてみませんか。
大正時代へタイムトリップ 門司港駅グランドオープン
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時代を越えて JR門司港駅 1891(明治24)年に九州鉄道の起点として開業した「JR門司港駅」は、利用客の増加に伴い、1914(大正3)年に現在の場所に移転。老朽化を機に2012(平成24)年から“創建当時の姿に戻す”復原工事が行われ、約6年半の工事を経た2019年3月10日、ついにグランドオープンを迎えました。大正時代の趣を可能な限り再現した空間は、気品漂い、まるで映画の世界のようです。「たびゅーとvol.15」では伝えきれなかった当日の様子を映像でお楽しみください。
皿倉山の新しい魅力 「皿倉八景」
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北九州市八幡東区の街並みを見下ろす形で悠然とたたずむ皿倉山。自然を満喫できる癒しスポットとして人々に愛されてきました。皿倉山を満喫できる景勝地として、表登山道が整備された当時の子どもたちが選んだ「帆柱十五景」が長く親しまれてきたが、80年以上の月日が経ち、皿倉山の環境や風景も大きく変化したため、旧八幡市制100周年を記念して、新たな景勝地「皿倉八景」を決定。皿倉山の見どころが詰まった「皿倉八景」の魅力を、虹色八景vol.8の特集と共に映像でもお楽しみください。
水をつくる~井手浦浄水場を訪ねて~
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毎日の食事や洗濯、お風呂など、私たちの生活に欠かす事のできない「水」。 蛇口をひねれば、いつでも水が出ることを当たり前のように生活していますが、そこには苦境を何度も乗り越えながら水道設備が整えられてきた長い歴史があり、その過程で建設された北九州市内5カ所の浄水場の努力によって、私たちは安心して水を使うことができるのです。 その中の一つ、平尾台の麓、美しい棚田が広がる井手浦地区にある井手浦浄水場を訪ね、貯水池や川から取り入れた水が、水道水になるまでの全貌を南都vol.20と共に映像でもお楽しみください。
スターフライヤーに届いた お客様からの手紙- エピソード1【北九州探訪録】
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スターフライヤーに届いた お客様からの手紙- エピソード1【北九州探訪録】
北九州市立美術館リニューアルオープン記念 芸術の薫る街・戸畑 緑と光の散歩道
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北九州市立美術館リニューアルオープン記念 芸術の薫る街・戸畑 緑と光の散歩道
昭和47年に八幡東区枝光に転居したのですがまだありましたね
日豊本線を潜るガードはものすごく低いですね。ここの箇所だけ架線がなかったとか❓
商店街に臨港線が走る今残ってたら観光名所になってたかもしれませんね。
なんか寂しすぎます‼️ウルウル!
工業団地内で作業中の不手際をした際に、ここに連れてきて先輩から説教うける文化もあります。
北方線の車庫が自宅のベランダから見えていた頃が懐かしい。 あの頃に帰りたい😢
廃止された時、高3生。普段、よく利用してました。私の青春そのものでした。
2:25 323は到津遊園に保存されていた頃に見たことがあります。残念ながら数年後に解体されましたけど。 その他、331形の台車は一部が今でもとさでんで使われて現役。現在では324(とさでん交通に譲渡→廃車)が筑前山家駅で保存されています。
母子手帳、小さい頃の賞状などが『八幡市』と書いてあったのを覚えてます。北九州市長が谷伍平のだったのはいつだったか、懐かしい話です。
わっしょい百万にも参加してほしいですね。
なんか泣いた😭
昔は上本町 山王町も山笠が出てたけど
街の中を貨物列車が行くのがすごいです。今あれば撮り鉄がドバッと行くでしょね。たぶん私も行きます。
若松市営が北九州市営の前身だったんですね。 それで若松から芦屋が市営が独占運行しているのが納得いきます。 当時西鉄は路面電車が主力でバスは、電車のない所をカバーしていました。 若松市営電車も、若松工業地帯からの輸送を始めたのもこの頃ですね。
北九州市民の足として様子を見たいと思います。 今じゃ荒川線や江ノ電等しか見られなくなりましたが様子を見たいと思います。
来年開業95周年ですね。
丸柏デパート、おもちゃのモダンヤ、わだや、中川通りの清酒花の露、倉内産婦人科、大石内科、若松信用金庫、カクイわた、寺尾質店、清酒八鹿などの看板に林成寺の梵鐘…………東宝映画館も。いやぁ、懐かしいなぁ! 幼い頃育った若松を離れ早40数年。この貨物輸送路面電車は今でもよく覚えています。
寂れては居ますがまだまだ元気
確か、ちかれたびーと言って廃止になったと聞いております。当時そんな言葉が流行っていたのでしょうか?
「ちかれたびー」は廃止年の昭和50年に新グロモントのCMで使われたフレーズで、当時の流行語です。映像には出ていませんが、側面の看板に実際に書かれていましたよ(この話が載っているJTBキャンブックス『日本の路面電車Ⅲ』関係者より)
@@mt115ec 様、教えて頂き本当に有難うございました。🙇 へぇ~新グロモントのCMに使われていて流行った言葉だったのですね。
全国、ワカマツ、わかまつイントネーション大事!あいづわかまつとはイントネーションちゃいま!わにチカラ込めよ!
ほんの一瞬私の実家の映画館が映りますね。懐かしいです。
素晴らしい!最高!
もう50年近くなるのかぁ、今は亡きオカンと手を繋いで乗ったなぁ。ふるさとの小倉を想う時頭に浮かぶのは旦過市場とチンチン電車のガタンゴトン、ガタンゴトン。
それが今の北九州市営バスなんですね。
昔の名残として引き継ぎ残してほしいものですよね。
北方線は西鉄北九州市内線の中では真っ先に廃止になった路線だったのに、廃止から4年後には都市モノレールへと転生して、結果的には、新時代の交通システムへとグレードアップした路線であるとも言えそう(笑)
その一方、本線は、バスに格下げ。なんということだ。
よく丸柏百貨店前に立って眺めていました。 近くで見ると巨大な電気機関車が貨車を引いていく姿は壮観でした。
懐かしいですねー❗️
モノコックバス時代の若松の勢いは、こんなに凄かったんですね...。 今の市営バスは(マニア的には嬉しいとは言え)西鉄バスでは最早運用離脱しているような旧型車ばかりですし、厳しい状況が窺えます。 若松も人口減少が進んでいますが、市営バスには何とか頑張って頂きたいです。
昨日行ってきました!!! もうかなり損傷していて驚きました…
チンチン電車と言う言葉NHKでは禁句ワードになりかねない。NHK初め公共の電波で流すならピー電車というのかな?
世知辛い世の中になりましたねぇ💦
小学校四年の時に廃止された北方線。 今かつての路線は電車が本当に走ってたのかと言う位に狭い。 もう今は電車自体無くなって久しいけど、子供時代の大切な思い出。
時が過ぎて、道路をはじめ北九州の街の姿は大きく変わりました。その中でも、北九州の路面電車は大切な思い出として多くの方の心に刻まれているようです。これらの思い出は私たちのこころの資産として大切にしたいですね。コメントありがとうございました。
冬月大好きだったな〜 吉田満の「戦艦大和ノ最期」を小1ぐらいから何度も読んで大和と冬月の写真見て絵を描きまくってた 転勤で北九で勤めている時に会いに行きたかった
これに乗って通学してました。懐かしい。
北方線は市民の足として通学や通勤で多くの方が利用されていました。私たち北九州、共通のよき思い出ですね。コメントありがとうございました。
@@北九州探訪録 学校帰りに北方車庫のおじちゃんたちが遊び相手になってくれる時もあり、調子に乗って勝手にポイントを切り替えようとしてエラく怒られたなぁ。当たり前なんですけどね😅
地元の港に峯風型駆逐艦「汐風」が埠頭として眠っています。 嘗ては「澤風」も存在しましたが後の港湾整備で撤去され、今は港を見下ろす公園の一角に澤風の元乗組員達によって鎮魂の碑として祀られたタービン軸が残るのみです。 数年前、港近くの老朽化した教会を解体した際にある物が発見されました。 港の開港を祝い 人々の安寧と繁栄を願う、昭和天皇と時の総理大臣:鳩山一郎の署名が入った色紙でした。 戦争を経験した多くの人々の思いの上に今の私達の平和な営みがあるのだと再認識する出来事でした。
兎に角懐かし,丸柏デパートに遊びにいったよ
明日、出かけたいと思います。
今の艦よりカッコいいことは間違いない.. 性能はさておき
当時では高い性能ですよ
現在の護衛艦と性能を比べた場合の話です
北方線が廃止された日が、誕生日…不思議な縁を感じます。
お誕生日と北方線が廃止された日が同じ・・本当に不思議なご縁ですね。 コメントありがとうございました。
小石提灯山笠は、我が戸畑祇園大山笠の元祖だし先輩だから足を向けて寝られ無いですね、戸畑村の人達が、疫病退散のお礼で山笠を作る時、若松村まで行って参考にしたと言われています、確かに小石提灯山笠の方が古いと言われています、こちらは享和、向こうは享保ですからね、
初めて知りました!私自身、1990年代に戸畑祇園の天籟寺を毎年担いでいました。若松の小石の山笠が元祖だったのですね!若松の山笠についてほとんど無知だったので、色々知れてよかったです!
利便性のために、大切なものを置いてきてしまったのかね。俺たちは
コメント失礼します。 日本人の心を、風呂敷に置き忘れています。
菊水作戦は、駆逐艦5隻が、帰って来てたはず
天一号作戦では立案当初の作戦案には、第41駆逐隊の両艦の名前はありませんでした。 つまり、大和と2水戦(第17駆逐隊、第21駆逐隊)の8隻の予定でした。 しかし、作戦実施部隊の第二艦隊から参加護衛艦艇が不足ではないかとの意見具申もあり、GF司令部は具申も考慮して第41駆逐隊の2隻を追加することになり正式に作戦発令がされました。 この軍艦防波堤の説明の看板には広島県呉市の呉市海事歴史科学館(通称 大和ミュージアム)からの資料提供された写真が掲載されています。 第41駆逐隊は防空駆逐艦として大和の護衛任務では、その威力を遺憾なく全能発揮しています。 南下する大和が反復される米艦載機空襲により、対空火器の被害が甚大となった左舷側を反航しつつ凄まじい対空弾幕を張って掩護した駆逐艦冬月の写真はあまりにも有名ですね。 また海戦後には艦隊生存者救助に全力を挙げて下さったことにも、感謝しかありません。 戦後は2艦は防波堤として立派に国土保全の大役を果たしてくれました。 その武勲と功績を偲び讃えるために昨年にやっと同地を訪れて現状を視察するとともに、少し離れていますが洞海湾を臨む3艦慰霊碑を訪れました。 天一号作戦に参加された第二水雷戦隊緖艦の艦霊と戦没された英霊に心より哀悼の誠を捧げます。 戦後、海上自衛隊のあきづき型護衛艦として「ふゆづき」「すすづき」の両艦の艦名復活は、機会があれば是非ともと部内からも待ち望む声が多くあってのことでした。 就役式並びに自衛艦旗授与式での「ふゆづき」艦長の訓示の中で、 「あのふゆづきは還って参りました」の言葉に 私達海上自衛官が先代の艦に対する思い入れと、その勲を継承し海上防衛への決意をも汲み取っていただけたら幸いです。海自OB
今はもう昔の面影は全然ないですね。北九州市営バスと言いながら、実際は若松区営バスで状態です。
写真見て、嬉しくもあり悲しくもあり。
冒頭の大橋通の写真は圧巻だな。しかし、二島方面から北浜を通り区役所。どんな経路で運行されていたんだろう。大井戸町→栄盛川→北浜??
ですよね。今のように小石方面から区役所周辺を通って若松駅に至る系統が無いから(というか道路自体がない)、これ全部二島方面からのバスですもんね。そもそも区役所行き(しかも北浜経由)ってあったのかと。栄盛川の交差点曲がって北浜方面行くんですかね。車体がこのカラーリングに変わったのっていつでしたっけ。1975年? しかし、このアングルから若松駅旧駅舎はこう見えてたんですね。色々と街の変遷を感じさせる大橋通りの風景です。
ありがとうございます。
昔の人に感謝します。
福岡市も市営バス作るべきです。西鉄ばかりは問題
言いたくないけどねえ、西鉄バスに比べて運行路線が貧弱。門司の田舎では、小倉行きのバスがあるのに、若松の田舎では、路線削減、バス代は高い。西鉄に身売りしたら?
旧カラーの北九州市営バスが懐かしいです😌💓